発展途上国とマイクロファイナンス

ジャック・アタリ緊急インタビュー
NHKテレビ番組「危機の核心とは何か」- マイクロファイナンス

このNHK特集でのジャック・アタリ氏のインタビューですが、このマイクロファイナンスに関してだけちょっと「これはどうなんだ?」って思ったので、その備忘録。(うまくまとまらなかったけど、とりあえずアップ)


途上国に対してこのマイクロファイナンスをえらく推奨しているようですが、貧しい人達にとっての根本的な対抗策ではなく、あくまでその場しのぎの一時対応でしかないように感じました。

確かに、今日、明日生きていけるかどうかギリギリで生活している人達にとって、お金というものは生きていく上で絶対に必要で、この小額融資がその人の助けにはなっているのでしょうが、それが長期的にみて国全体の活性化に繋がるとはどうしても思えないんですよね。


個人的には大手メーカーが発展途上国に工場を作る方が全然ましだと思うんです。

確かに低賃金で働かせていると批判を浴びていることもありますが、でも、工場を作ることによって雇用が生まれるじゃないですか。逆に、やれフェアトレードだとかいって(労働賃金とはちょっと違うかな?)、最低賃金を先進国並にしてしまうと、そのメーカーにとってこの国に進出するメリットがなくなるわけで、参入しなくなっちゃいますよね。

貧しい国っていうのはそもそも働き口がないわけで、やはり如何に雇用を生むかが大事だと思うんですよ。


如何に雇用を生むかは、その国が真剣に取り組まなくちゃいけなくて、基本的に貧困国っていうのは資源がないので、やはり外資の力を借りるのが手っ取り早いと思うんですね。そうなると、外資が参入しやすい環境を作ることが第一の目的としてくるんじゃないでしょうか。例えば登記の容易さ、法人税やその他様々なコストの低さ、外国人の住みやすさ(犯罪率が低い、生活基盤が整っている)、等々。


と同時に、国側は自国民である労働者も守らなければなりませんよね。単純に低賃金でこき使われているだけでは先進国に良いところだけを持っていかれますので。最低限の生活保障を約束し、仕事・ビジネスのやり方を教育させてもらい、将来は自分達だけで仕事が回せるような基盤を作るというビジョンのもと、外資の受け入れ体制を作ると。


参入企業側は、採算や利益だけを重視するのではなく、社会貢献的な目的でもっと進出していけないものでしょうかね。CSR(企業の社会的責任)の考え方がもっと浸透すればいいんですかね。国際機関がその辺の規定を作るとか、どうなんでしょう?既に何かやっているのかも知れませんが。。



とりあえず、ちゃんとした教育もされていないまま、お金だけを貸すっていうのは物凄く安直な考えのような気がして、僕はあまり好きになれませんでした。教育っていうのは何も学校だけから学べるのではなく、寧ろ仕事を通して学ぶことの方が多いので、やはり雇用を如何に生むのかに焦点を当てたいなと思った次第です。


ま、最終的には途上国って全て政府のお偉いさん方がネックだって話しですけどね。それは先進国でも言えることかも知れませんが・・・

移動手段と移動エネルギーの効率化

移動手段には徒歩以外に、自転車、バイク、自動車、電車、飛行機と様々なツールがあります。

現代の我々の生活では、移動が一つのキーポイントとなっているため、移動手段は日進月歩で進化していってます。人々は常日頃から、如何に安全かつ効率よく移動するかを目的とした乗り物を発明してきました。


特に昨今ビジネスやライフスタイルのグローバル化が激しくなり、ますます国家間の人の出入りが多くなっています。そのため、飛行機ではエアバス380と言ったような大型機が作られたり、バジェットエアと呼ばれる格安航空会社も増えています。


また一方では、移動手段は環境問題にも直結しているため、自動車であればHVやEV、次世代乗り物としてリニアモーターカーやエアロトレイン、セグウェイなどにも注目が集まっています。


将来的には映画「バック・トゥー・ザ・フューチャー」や「フィフス・エレメント」で出てきたような『空飛ぶ車』が登場するのでしょうか。


ただ、『空飛ぶ車』実現のためには開発技術だけの問題ではなく、インフラ整備や新たな法規制、人々の運転スキルが必要になってき、これらには多大なコストや時間がかかります。


僕は昔から、全ての移動においてのコストや時間、エネルギーはかなり無駄だと感じています。


特に、電車や飛行機に乗った時、行き先や時間帯によっては非常に空席が目立つものがあります。せっかくこれだけ大きな物体を、多大なエネルギーを消費して動かしているのだから、もう少し効率良く人々を移動できないものなのかと考えています。


例えば、ある人はニューヨークから東京へ、また別の人は東京からニューヨークへ、同じ日に移動するとしましょう。このお互いの移動エネルギーを何らかの形で補完しあうことができないのかなぁ、と思うわけです。


で、最終的に行き着いた答えが、物体が移動しなければ移動エネルギーは必要ないんだ、ってことです。



現在、テレビや電話、インターネットの技術により、視覚と聴覚に関しては、既にグローバル規模で広がっています。あとは、嗅覚と味覚、触覚がリモートで広がれば、人間はそれほど移動する必要がなくなるのではないでしょうか。


要は、移動先にリモートで動かせる箱(所謂ロボットですね)をおいておき、その箱から伝わるあらゆる情報は、自分の全ての神経系と連動します。勿論安全弁がついており、命に関わるある一定以上の反応は制御されます。例えば暑いところに行けば、暑さを感じるのだけれども、死線を超えるような暑さまでは感じない、というように。


ってことで、将来は交通機関の発展はもうほとんどなく、意識転送にどんどんシフトしていくのかと。「どこでもドア」や瞬間移動は実現できなくとも、意識の瞬間移動は可能だと思います。



以上、前回の日記で言及した「バーチャル・ノマド」が次世代の鍵を握ると言及したのは、こういった理由からでした。

21世紀の中心都市とノマドについて

いつもチェックさせて頂いているla dolce vitaさんのブログネタから。

『未来の歴史とノマドの時代』
http://www.ladolcevita.jp/blog/global/2009/08/post-246.php


そのエントリの中で紹介されていたジャック・アタリ氏のNHKでのインタビュー。


(la dolce vitaさんブログから抜粋)

1. 中心都市
これまで市場の秩序は、常に1つの「中心都市」と定めて組織され、そこには「クリエター階級」(海運業者、起業家、商人、技術者、金融業者)が集まり、新しさや発見に対する情熱に溢れていた。 この「中心都市」は、経済危機や戦争が勃発することにより他の場所へ移動する。

つまり歴史を動かしてきたのは「中心都市」であり、13世紀のブルージュに始まり、ヴェネチアアントワープジェノヴァアムステルダム、ロンドン、ボストン、ニューヨークを経て20世紀にロサンゼルス(北のシリコンバレー含む)に移ってきたというもの。 私も人は「国」ではなく「都市」を目指して移動しているなあ、と思っていました。
「次は世界のどこが中心都市になるのか?」という命題ですが、世界が多極化するにつれて複数の中心都市が生まれると思います(希望的観測)。 


僕の希望的観測では、次の中心都市はネットの中なのかなぁと思ったりしてます。
つまり、もう物理的な場所ではなく、仮想的な場所が世の中の中心となるのかなぁと。
世界はネットを中心に動いていく、みたいな。


(la dolce vitaさんブログから抜粋)

2. ノマド
世界はノマド(元々「遊牧民」の意)の時代になる、中でも「超ノマド」が鍵を握る(超ノマド = クリエイター階級 = 中心都市の栄枯盛衰に最も敏感なエリートビジネスマン、学者、芸術家、芸能人、スポーツマンなど)。
アタリによると現在世界に1千万人から5千万人の「超ノマド」がいるそうです。 想像してたより多い? どうでしょう?


ジャック・アタリ氏は世界中の人々をノマドとして分類すると

  1. 「超ノマド」…クリエーター階級。1千万〜5千万人(増加傾向)
  2. 「バーチャルノマド」…定住民、中階級。(日本人は概ねココに該当ですかね?)
  3. 「下層ノマド」…貧困層。35億人(増加傾向)

というように3つのカテゴリーに分け、その中でも1の「超ノマド」が21世紀の鍵を握ると言っています。


僕は、意外と2の「バーチャルノマド」が鍵を握る次世代人(ニュータイプ)になるのでは、と思ったりしています。
これは上で述べた「中心都市がネットの中にできる」というのと関連してきます。




ちなみに余談ですが、「バーチャルノマド」で現れる次世代人のニュータイプは、初代ガンダムで言うところのアムロ・レイみたいなキャラなのかなぁと。でもってニュータイプに憧れてたけどなりきれなかったシャー・アズナブルは「超ノマド」みたいな。で、そんなシャーに憧れている僕は「超ノマド」を目指すべく、日々奮闘中です。

僕のブログに対する想い -新たな目標設定-

僕のブログは見ての通り、ほんと気まぐれで更新しています。


書きたいネタは結構あり、何か思いついてはメモ帳に書いて下書きに保存してるんですけど、どれも中途半端な状態で残っています。中途半端でもある程度の文章でアップしちゃえばいいのかも知れませんが、なんとなく、公開するからには納得のいくものをあげたいと考えています。


とは言うものの、別にこのブログを誰かに教えている訳でもないので、ほとんど独り言状態の自己満足の世界なんですけれども、それでもやっぱり不特定多数の場へ僕の想いを公開するからには、それなりの文章を書きたいう信念のもと、ブログを書いています。なので、いつも「あーでもない、こーでもない」と言って試行錯誤しては、その下書き達はタイミングを逃してしまって、日の目を見ることなく埋もれてしまっています。


それでもたまに「これじゃーいかん。とりあえず頻繁にアップすることを心がけるんだ」と奮い立って、自分としては完成度の低いエントリーをあげたりするんですが、やっぱり数日経つと「あー、やっぱアップするんじゃなかったなー」と後悔して、再び更新頻度が減っていきます。また、自分なりに完成度が高いと思うエントリーをアップしたとしても、「この次はこれ以上のものを」という(誰も見ていないにもかかわらず)妙なプレッシャーが自分の中で芽生えてきたりしています。


そんなこんなで、思考が全然更新しない悪循環に陥ってしまいました。ま、これが仕事ではないし、重荷になるといけないので、書きたいときに書きたいことを書けば良いやって思っていたんですけどね。いたんですけどね。


最近やっぱりアウトプットの重要性を再認識してきました。


基本的にですね、僕は文章を書くのが下手なんですよ。昔からそうなんですが、言語能力、読解力、読書速度が他人と比べると著しく低いので、アウトプットの文章もやはり低いレベルものになってしまうんでしょうね。


それをインプルーブするためのブログだと、僕の中ではそういう位置づけなので、やはり今後は最低でも週に一回、月に四回は更新を心掛けていきたいです。


インプット4割、思考4割、アウトプット2割ぐらいの割合がいいのかなぁ。(今まではインプット5割、思考5割でした。)情報を取得し、それを自分の中で理解したあと自分なりに考え、そして発言する。その一連の作業でやっと一人前になれる気がします。


こういった目標をここに宣言することで、自分への戒めになればと思いました。

医薬品のネット販売規制について思うところ

『医薬品のネット販売規制で世論巻き起こるか--ターニングポイントの検討会議事録』
http://japan.cnet.com/sp/drag/story/0,3800097284,20392676,00.htm


ちょっと前の記事ですが、最近見たので、これについて僕の個人的意見をちょっとだけ書いてみます。この記事を読むと、三木谷さんの主張や怒りは至って真っ当だと思いますが、そこにはあえて触れず、僕ならどういう議論を展開していくかなぁ、という視点で考えてみました。今までの流れの全てを把握している訳ではないので、全然見当違いなことを言ってたらご勘弁を。。


まず思ったのが利害関係が反するリアル店舗側とネット販売側のお互いの主張がちょっと噛み合ってないのだと感じました。(そりゃー、利害が一致しないので主張が噛み合わないのは当たり前なんですが・・・)


 リアル店舗側の主張 : 安全性を保つべき(マジョリティ視点)
 ネット販売側の主張 : 困っている人を見捨てるな(マイノリティ視点)


最終的なところはお互いの利権争いになるんだと思いますけど、本当にネット販売側が利権を勝ち取りたいならば、相手側の主張にたって議論を展開していった方がいいのかなぁと思いました。そうしないといつまでも平行線を辿ってしまいますよね。利害関係が対立している以上、相手側の主張をねじ伏せない限り、自分達の主張は通らないのだと思うのですよ。


では相手側の主張の「安全性」について、まずは深く掘り下げる必要があるのかと。
店舗販売がネット販売よりなぜ安全なのか。どこが安全なのか。ここが取っ掛かりの部分だと思います。


日本置き薬協会常任理事長の足高慶宣さんは下記のような例を挙げています。

 ・購入者が気付かない病気を発見してあげる

 ・購入者がいかにも自殺するために薬をたくさんほしいんだという時にそれを止める

 ・ちょっとした説明ではわかりにくい部分をわかりやすい日本語の言葉を使って説明して伝達する


こういった懸念事項を1つ1つ潰していけば、ネット販売でも認可が下りるのだと思うのです。

じゃー具体的にどうやって潰していくのか。ネットがリアルにどう対抗していくのか。
簡単に思いつくところで2つの案を挙げてみました。


まず1つ目。ネットでもリアルのような販売を実現してしまう。

どういうことかというと、ネットの向こう側に専門員を置いたら良いのかなぁと。店舗がネットに変わっただけで、販売形態としては変わらなくするんです。購入者はこの専門員を通してでないと購入できなくすると、対面販売の形態は取れていますよね。ただその場合、ネット販売側はそれ相応の専門員を常時配置しないといけないため、物凄い負担がかかり、現実的ではなくなりますね。


2つ目は、システムで対応するやり方。

症状を選択していかないと、該当する薬品を購入できなくする仕組みを作っちゃう。モノありきではなく、症状ありきの考え方ですね。ただ、これも色々と問題があって、例えば購入者は買いたい薬が分かっているときでも、その薬に辿り着けない可能性があるし、それにかなり面倒。あとシステムにバグがあったら命に関わる大問題になり、ネット販売側のリスクが高すぎ。



こんな感じで、とりあえず安全性を強化していく策をもっと模索できるのではないのかなぁと。既にここまで議論した結果なら、ごめんなさい、ですけど。ま、僕のアイデアはまだまだ甘ちゃんなので、もっと偉い人に考えてもらったら、もっと有効な解決策が出てくると思うんですけどねぇ。


ま、何はともあれ、お互い感情的になっては献身的な議論ができないので、実のある会議を期待してます。怒鳴りたい気持ちは分かりますけどね。


ってことで、頑張ってください。

自分が存在している証明と僕がブログを書く理由 〜情報化社会での脳と体の役割〜

(1)電子化されゆく社会


近年、情報化社会が進むにつれ、なんでもかんでも電子化・デジタル化が進んでいます。
電子マネー電子カルテ、電子ピアノ、電子時計、電子ペット、電子レンジ・・・
と数え上げればキリがありません。


そもそも電子化・デジタル化とは、全ての情報を0、1という二進数のデータで扱うことです。


では、なぜこれほどまでに世界は情報化(デジタル化)社会へ移行しつつあるのでしょうか。



電子化する目的としては、データ保存・加工・検索の容易さ、媒体のコストダウン化とダウンサイジング化、などなど様々な要因があります。しかしその反面、データ流出や改竄といったデメリットも目立ちます。


今後、どこまでデジタルがアナログな現実世界に食い込んでいくのか分かりませんが、デジタルとアナログの共存がますます必要になってくるでしょう。




(2)電脳の世界


さて色々なものが電子化されていくこの世の中で、脳が電子化された世界を描いている『攻殻機動隊 - GOST IN THE SHELL -』というアニメがあります。僕、この映画が大好きで何回も見たのですが、見るたびに新しい発見があり、人間とは何なのか?みたいな哲学的に考えさせられる映画です。この物語でキーとなるのが『電脳』と言われる、脳の神経細胞を特殊な技術を用い、外部とのやりとりを電気信号で行う技術です。



今現在は、脳から手や足などの体へ命令を送り、物理的な物体(PCや携帯等)を通して目から可視的に情報を閲覧していますが、電脳化により脳自体を直接ネットワークに繋ぐだけで、仮想現実の世界(≒インターネット)にダイブすることが可能となるでしょう。するとどういう世界になるんでしょうか?脳のみがどんどん発達していき、手足などの体には意味がなくなってきたりするんですかね?でもって最終的にはあちら側(バーチャルの世界)に住むことだってできる時代が来たりして。じゃあ、今のこの体の役割とは一体・・・




(3)脳と体の役割


この攻殻でも、押井守監督からそのメッセージが投げかけられています。監督は昔、「記憶(≒脳)のみが人間の存在を証明する唯一のモノ」だと考えていたようですが、年齢を重ねるにつれ、「実は肉体がその人の存在を証明するのでは」と考え方が変わってきたようです。


(押井談:↓下記URL参照)
http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/ghibli/cnt_interview_oshii.htm

『記憶は、自分というものの同一性を確認するためのものではあっても、自分そのものの根拠にはなりません。実際には、記憶によって、日々刻々と変わり続ける自分を、確認しているだけなんです。むしろ、記憶を自分の根拠にするのは危ういですよ。それは自我や自意識といったことにつながりますが、そういう概念はすべて近代以降に生まれたもので、ずっとあったのはやっぱり身体なんです。
(中略)
最近、身体に触れずに済むコミュニケーションが求められているでしょう。電車に乗っても、携帯電話にばかり向かっている。五感のなかでも、視覚と聴覚ばかりが偏重されている時代で、なぜ、そうなっているんだろうということが気になっていました。日本映画一つとっても、ものを食べる場面が急速になくなっているし、アニメーションには、身体性のない幽霊みたいな女の子がたくさん出てくる。このままだと、臓器移植のニュースを聞いても「何がニュースなのか分からない」という事態に陥るんじゃないかと。』


(押井談:↓下記URL参照)
http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/ghibli/cnt_interview_2004so.htm

『携帯やインターネットで感覚の延長線上にあるものは膨大に広がった。でも、自分の存在がまさにこの体なんだという感覚がない。』


しかし、僕は今だに押井さんの昔の考え方(記憶(≒脳)のみが人間の存在を証明する唯一のモノ)を支持しています。



義体技術が進歩するにつれ、そのうちこの映画のように、脳のみの人間が誕生してもおかしくないんじゃないかなぁ、と思う今日この頃です。例えばホーキング博士のような筋萎縮性側索硬化症を発症した人が、体は動かないけど脳は正常なため、全身義体化したり。また逆に人工知能(AI)が発達して、体は生きているけど脳死の人に、AIを脳に埋め込んでみたりというのも出てくるかも知れません。


そのとき、全身義体化の人と、人工知能の人は、どちらがより人間なのでしょうか。多分、十中八九全身義体の方は人間だけど、人工知能は人間ではない、って意見が大多数を占めると思うのですが、そうなるとやはり「記憶(≒脳)のみが人間の存在を証明する唯一のモノ」であり、「肉体がその人の存在を証明する」にはならないのだと思うんですよね。




(4)自分が存在しているという証明方法


仮に将来、仮想世界ができたとして、そこで生活する人々において、自分が存在している証明や、相手が存在している確証はどのように説明することができるのでしょう?



例えばこのインターネット内において、まだ現実に出会ったことのないユーザがこの世に存在しているという確証などどこにあるのでしょう?ひょっとすると、インターネットという膨大なシステムが作り上げた架空の人物がネット上に書き込みをしているのかもしれません。このブログだって、人間が書いているように見せかけて、実は全て「はてな」というものすごいシステムにより自動生成されて、写真ですらどこかから取ってきたか、もしくは、データ加工し作り上げたものなのかも。そう、今読んでいるこのエントリーでさえも、『僕』という人間をリアルに知らない人にとっては、システムが勝手に作り上げた架空の人物のブログなのかも知れません。



では、バーチャルの世界で自分の存在を証明するにはどのようにすればいいのか?自分はシステムが作り上げた架空の人物ではない!という証明は?




・・・色々と熟考しましたが、僕の腐った脳みそでは今のところ答えが出ませんでした。。


もし本当に証明したいならば、結局リアルの世界で直接会う以外に実証することは難しいのでは、という結論に至った訳です。(証明することにどれ程の意味があるのかは分かりませんが。)



さて、ここで「(3)脳と体の役割」で僕が出した結論との矛盾点が出てきます。


(3)では、人を人と認識するには肉体よりも脳や記憶が深く関係するのでは、と結論付けました。でも、行き着くところは今の押井さんの考えと同じく、人はやはり肉体に依存しているのかなぁ、と思った次第です。



はてさて、困った思考回路です。




(5)僕がブログを書く理由


ブログを書いている人って、日ごろあった出来事を聞いてもらうために日記替わりに書いたり、自分の意見を聞いて欲しくて書いたりしてますよね。僕は日記としては別のSNSを使って、自分の思想的なものはこのブログを使ってます。でもってこのブログは知人にはほとんど誰にも教えていません。普段の僕と違う自分を曝け出しているので、ちょっとこっ恥ずかしいんですよね。ってな訳でプロフには「裏の顔」をアピールしてるのです。


じゃー、なぜSNSとは別に書いているのかっていうと、なんとなく別の自分の分身を作りたい感じがしたんですよ。リアルでは交わらない世界で、『松表』という人間がここで形成され、ここに生きているんだっていう、そーゆー感覚を持ちたかったんですね。梅田さんの言うところの「人体実験」みたいな。でもって、僕が寝てても、飯食ってても、仕事してても、この分身は相も変わらず、僕の別人格として存在してくれているんですね。見知らぬ誰かが読んでくれたら、『松表』ってやつはこんなこと考えてるヤツなのかと、イメージができるわけですよね。それは、僕が死んでしまっても基本的にはココにいる『僕』は生きているんだと思うんですよ。例えば明日死んでしまって(Knock on wood ^^;)、でもこのブログは残ってて、見に来た人にとってはココの『僕』はまだ生きている訳ですよね。まぁ、誰かが「ここの管理人、死んじゃいましたよ。」ってコメント残せばバレちゃいますけど。なので、あまりリアルの知り合いには教えていないのかも。


つまり僕は多分、僕が生きている証を残したいのかもしれませんね。いつ死んでしまってもいーよーに。僕が死んでもここの分身が生きてくれればいーやってな感じですかね。(といっても、別に自殺を考えているとかではないですよ。念のため。)



すると、これまた「(4)自分が存在しているという証明方法」の結論と矛盾が生じたりします。世の中矛盾だらけです。(と自分を肯定してみたり)



初めは「人の存在の定義は脳や記憶で判断する」と説いて、次に「でも、ネット上での存在の証明って不可能なんじゃ?」、で最後に「でもやっぱブログを書くのは自分の存在を証明したいからかもねー」という、支離滅裂な展開ですな。




結局のところ、現段階では仮想的な空間であるネットの繋がりが一番てっとり早い認識方法や情報共有であったりするのかなぁと。



最後はそんな投げやりな感じで、このまとまりのないエントリーを締めさせて頂きたいと思います。

最後まで読まれた奇特な方、長々とすんませんでした。。

ベトナム生活での最も心に残った言葉(僕が政経に興味を持ったきっかけ)

ベトナムというと、まず何を思い浮かべますか?


フォーとか生春巻きとかホーチミンおじさんとか色々ありますけど、僕が初めてベトナムへ行く前に頭に思い浮かんだことは「ベトナム戦争」と「社会主義国」でした。

ベトナム戦争というと、世間一般ではアメリカが戦後唯一(世論に押されて)撤退した戦いであり、当時はアメリカ軍がヒール(悪役)であったという印象が強いと思います。

僕が行く前は、恥ずかしながら、ほんとこれぐらいの知識しか持ち合わせていませんでした。


そんな極僅か知識のもと、ベトナムホーチミンに初めて降り立ったときの印象としては「貧しい国だけど人々に活気があるなぁ。そしてバイクが多すぎ・・・」と思ったものです。



ベトナムの生活にもだいぶ慣れてきたある日、海外留学経験のあるベトナム人ベトナム戦争について初めて話す機会があり、ご意見を聞かせてもらいました。


その人曰く、

「あの戦争で勝ったのはベトナムってことになってますよね。でも、今のベトナムを見てください。とても貧しい国だと思いませんか?日本は第二次世界大戦アメリカに負けましたよね。でも今では経済的にも物凄く豊かな大国になっています。私は、あのベトナム戦争アメリカが勝っていれば、この国は、少なくとも今よりはもっと豊かになっていると思うんですよ。」

この言葉は本当に僕の胸に突き刺さりました。多分、その当事者が語った言葉だからこそ、余計にズンと来るものがあったのでしょう。


僕は戦争を知らない子供で、生まれたときには既に日本は先進国の仲間入りになり世界経済にも影響を及ぼすぐらいの力を持っていて、生活インフラはほぼ全て完備され、何不自由なく教育を受けられ、日本が大国であることすら全く気づかずに過ごしてきました。


その義務教育の中で、日本人として平和主義を叩き込まれ、戦争=絶対悪だと常々教わってきました。なので戦争を二度と起こさないためにも憲法9条ができ、自衛隊があると言えど専守防衛を貫いているのはその考え方があるからだと認識しています(憲法9条にはまた別の問題が含まれていますが)。僕も勿論、その考え方には疑う余地がないと思ってました。湾岸戦争のときもイラク戦争のときも、当たり前のようにアメリカが指揮を取った戦争を批判的に感じていました。


ただ、この人の意見を聞いたとき、なんだか今までこれだけは覆らないであろうと信じて疑わなかった軸がブレたように感じました。と同時に、自分が如何に無知であるかも思い知らされました。当時のヒッピー達にこの言葉を聞かせたら、彼らは何と思うんだろう?



とは言ってもやはり戦争を正当化することはできないので、また別の形での解決法を探すべきだとは思いますが。


ってなわけで、このときから僕は、民主政治や社会主義、資本経済や共産社会に興味を持ち始めたのでした。




ちなみに、社会主義国であるベトナムでは、いまだ秘密警察みたいなのがその辺にいるらしく、そーいったお話しはご法度なので、国内ではほとんどそーゆー話しはできませんでした。この人と話したときも、周りに誰もいないことを確認してお話ししていました。