自分が存在している証明と僕がブログを書く理由 〜情報化社会での脳と体の役割〜

(1)電子化されゆく社会


近年、情報化社会が進むにつれ、なんでもかんでも電子化・デジタル化が進んでいます。
電子マネー電子カルテ、電子ピアノ、電子時計、電子ペット、電子レンジ・・・
と数え上げればキリがありません。


そもそも電子化・デジタル化とは、全ての情報を0、1という二進数のデータで扱うことです。


では、なぜこれほどまでに世界は情報化(デジタル化)社会へ移行しつつあるのでしょうか。



電子化する目的としては、データ保存・加工・検索の容易さ、媒体のコストダウン化とダウンサイジング化、などなど様々な要因があります。しかしその反面、データ流出や改竄といったデメリットも目立ちます。


今後、どこまでデジタルがアナログな現実世界に食い込んでいくのか分かりませんが、デジタルとアナログの共存がますます必要になってくるでしょう。




(2)電脳の世界


さて色々なものが電子化されていくこの世の中で、脳が電子化された世界を描いている『攻殻機動隊 - GOST IN THE SHELL -』というアニメがあります。僕、この映画が大好きで何回も見たのですが、見るたびに新しい発見があり、人間とは何なのか?みたいな哲学的に考えさせられる映画です。この物語でキーとなるのが『電脳』と言われる、脳の神経細胞を特殊な技術を用い、外部とのやりとりを電気信号で行う技術です。



今現在は、脳から手や足などの体へ命令を送り、物理的な物体(PCや携帯等)を通して目から可視的に情報を閲覧していますが、電脳化により脳自体を直接ネットワークに繋ぐだけで、仮想現実の世界(≒インターネット)にダイブすることが可能となるでしょう。するとどういう世界になるんでしょうか?脳のみがどんどん発達していき、手足などの体には意味がなくなってきたりするんですかね?でもって最終的にはあちら側(バーチャルの世界)に住むことだってできる時代が来たりして。じゃあ、今のこの体の役割とは一体・・・




(3)脳と体の役割


この攻殻でも、押井守監督からそのメッセージが投げかけられています。監督は昔、「記憶(≒脳)のみが人間の存在を証明する唯一のモノ」だと考えていたようですが、年齢を重ねるにつれ、「実は肉体がその人の存在を証明するのでは」と考え方が変わってきたようです。


(押井談:↓下記URL参照)
http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/ghibli/cnt_interview_oshii.htm

『記憶は、自分というものの同一性を確認するためのものではあっても、自分そのものの根拠にはなりません。実際には、記憶によって、日々刻々と変わり続ける自分を、確認しているだけなんです。むしろ、記憶を自分の根拠にするのは危ういですよ。それは自我や自意識といったことにつながりますが、そういう概念はすべて近代以降に生まれたもので、ずっとあったのはやっぱり身体なんです。
(中略)
最近、身体に触れずに済むコミュニケーションが求められているでしょう。電車に乗っても、携帯電話にばかり向かっている。五感のなかでも、視覚と聴覚ばかりが偏重されている時代で、なぜ、そうなっているんだろうということが気になっていました。日本映画一つとっても、ものを食べる場面が急速になくなっているし、アニメーションには、身体性のない幽霊みたいな女の子がたくさん出てくる。このままだと、臓器移植のニュースを聞いても「何がニュースなのか分からない」という事態に陥るんじゃないかと。』


(押井談:↓下記URL参照)
http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/ghibli/cnt_interview_2004so.htm

『携帯やインターネットで感覚の延長線上にあるものは膨大に広がった。でも、自分の存在がまさにこの体なんだという感覚がない。』


しかし、僕は今だに押井さんの昔の考え方(記憶(≒脳)のみが人間の存在を証明する唯一のモノ)を支持しています。



義体技術が進歩するにつれ、そのうちこの映画のように、脳のみの人間が誕生してもおかしくないんじゃないかなぁ、と思う今日この頃です。例えばホーキング博士のような筋萎縮性側索硬化症を発症した人が、体は動かないけど脳は正常なため、全身義体化したり。また逆に人工知能(AI)が発達して、体は生きているけど脳死の人に、AIを脳に埋め込んでみたりというのも出てくるかも知れません。


そのとき、全身義体化の人と、人工知能の人は、どちらがより人間なのでしょうか。多分、十中八九全身義体の方は人間だけど、人工知能は人間ではない、って意見が大多数を占めると思うのですが、そうなるとやはり「記憶(≒脳)のみが人間の存在を証明する唯一のモノ」であり、「肉体がその人の存在を証明する」にはならないのだと思うんですよね。




(4)自分が存在しているという証明方法


仮に将来、仮想世界ができたとして、そこで生活する人々において、自分が存在している証明や、相手が存在している確証はどのように説明することができるのでしょう?



例えばこのインターネット内において、まだ現実に出会ったことのないユーザがこの世に存在しているという確証などどこにあるのでしょう?ひょっとすると、インターネットという膨大なシステムが作り上げた架空の人物がネット上に書き込みをしているのかもしれません。このブログだって、人間が書いているように見せかけて、実は全て「はてな」というものすごいシステムにより自動生成されて、写真ですらどこかから取ってきたか、もしくは、データ加工し作り上げたものなのかも。そう、今読んでいるこのエントリーでさえも、『僕』という人間をリアルに知らない人にとっては、システムが勝手に作り上げた架空の人物のブログなのかも知れません。



では、バーチャルの世界で自分の存在を証明するにはどのようにすればいいのか?自分はシステムが作り上げた架空の人物ではない!という証明は?




・・・色々と熟考しましたが、僕の腐った脳みそでは今のところ答えが出ませんでした。。


もし本当に証明したいならば、結局リアルの世界で直接会う以外に実証することは難しいのでは、という結論に至った訳です。(証明することにどれ程の意味があるのかは分かりませんが。)



さて、ここで「(3)脳と体の役割」で僕が出した結論との矛盾点が出てきます。


(3)では、人を人と認識するには肉体よりも脳や記憶が深く関係するのでは、と結論付けました。でも、行き着くところは今の押井さんの考えと同じく、人はやはり肉体に依存しているのかなぁ、と思った次第です。



はてさて、困った思考回路です。




(5)僕がブログを書く理由


ブログを書いている人って、日ごろあった出来事を聞いてもらうために日記替わりに書いたり、自分の意見を聞いて欲しくて書いたりしてますよね。僕は日記としては別のSNSを使って、自分の思想的なものはこのブログを使ってます。でもってこのブログは知人にはほとんど誰にも教えていません。普段の僕と違う自分を曝け出しているので、ちょっとこっ恥ずかしいんですよね。ってな訳でプロフには「裏の顔」をアピールしてるのです。


じゃー、なぜSNSとは別に書いているのかっていうと、なんとなく別の自分の分身を作りたい感じがしたんですよ。リアルでは交わらない世界で、『松表』という人間がここで形成され、ここに生きているんだっていう、そーゆー感覚を持ちたかったんですね。梅田さんの言うところの「人体実験」みたいな。でもって、僕が寝てても、飯食ってても、仕事してても、この分身は相も変わらず、僕の別人格として存在してくれているんですね。見知らぬ誰かが読んでくれたら、『松表』ってやつはこんなこと考えてるヤツなのかと、イメージができるわけですよね。それは、僕が死んでしまっても基本的にはココにいる『僕』は生きているんだと思うんですよ。例えば明日死んでしまって(Knock on wood ^^;)、でもこのブログは残ってて、見に来た人にとってはココの『僕』はまだ生きている訳ですよね。まぁ、誰かが「ここの管理人、死んじゃいましたよ。」ってコメント残せばバレちゃいますけど。なので、あまりリアルの知り合いには教えていないのかも。


つまり僕は多分、僕が生きている証を残したいのかもしれませんね。いつ死んでしまってもいーよーに。僕が死んでもここの分身が生きてくれればいーやってな感じですかね。(といっても、別に自殺を考えているとかではないですよ。念のため。)



すると、これまた「(4)自分が存在しているという証明方法」の結論と矛盾が生じたりします。世の中矛盾だらけです。(と自分を肯定してみたり)



初めは「人の存在の定義は脳や記憶で判断する」と説いて、次に「でも、ネット上での存在の証明って不可能なんじゃ?」、で最後に「でもやっぱブログを書くのは自分の存在を証明したいからかもねー」という、支離滅裂な展開ですな。




結局のところ、現段階では仮想的な空間であるネットの繋がりが一番てっとり早い認識方法や情報共有であったりするのかなぁと。



最後はそんな投げやりな感じで、このまとまりのないエントリーを締めさせて頂きたいと思います。

最後まで読まれた奇特な方、長々とすんませんでした。。