そろそろ政治とか経済について語ってみてもいいですか。

漠然とした考えでまだ全然まとまってないんですが、今の民主政治や資本経済って、本当にベストな選択なのかなぁーと最近常々疑問に思ってます。かといって僕がマルクス資本論とかの本を読み漁って思ったんじゃなく、色んな国に住んでみて実体験を通して思ったことをつらづら〜っと書いてみようかなぁと。なので突っ込みどころ満載なのは承知の輔ってことで、そこんとこよろしく。



ってことで、まずは経済について。


共産システムは20世紀最大の実験だったと僕は思っています。でもって、結局それが失敗に終わり、実験国であったソ連を筆頭とする共産国は次々と破綻していきましたけど、だから資本主義万歳って安直な考えはどーなんだろーって。


まぁ、この先進国での急激な発展の仕方は資本システムがもたらしたものが大きく起因しているのは間違いないんでしょうね。例えば数十年前であれば冷蔵庫、洗濯機、テレビが三種の神器なんて言われてて富裕層しか持ってなかったけど、大量生産・大量消費によって一般庶民の手にまで広がりました。このサイクルでいけば、新技術開発⇒商品化(高価)⇒富裕層への展開⇒(成功すると)商品のコモディティ化(安価)⇒一般庶民へ⇒再び新技術開発への投資ってな具合に、どんどん人類の文明が発達してきましたけど。でも、最近の先進国の状況を見ていると、このシステムにもそろそろ歪が出てきたんじゃーないでしょーか。
良いものを作るためのモノ中心主義だったのが、今は逆転してカネありきの拝金主義に変わってきてるんじゃーないんかなー。人々がいかに良いものをこの世に出すか、から、いかに稼ぐか、って志向に変わりつつあって、それが資本主義の根本的な考えであり、末恐ろしいところだと思うのです。


もっとなんかこー人々の心まで豊かになるよーな経済システムがでてきてもよさそーな気がするんですけどね。
PICSY伝播投資貨幣ってのはその一環のような気がせんでもないです。はい。そもそもお金のあり方自体を見直そうって話しですよね。すごい着眼点ですな。



ま、そんな感じで、22世紀の歴史の教科書には、「20世紀最大の失敗に終わった共産システム」と並行して「21世紀最大の失敗に終わった資本システム」が載るんじゃないかなぁーなーんて思ったりしてます。


ってことで、今の資本経済は現時点ではベター(最善策)ではあるけど、ベスト(最高の選択)ではないと独断と偏見でもの申したいです。かと言って、じゃー、どんな経済システムがえーんやっちゅー話しですが、そんなもん僕の頭で考えられたら今、こんなとこでこんなことしてないわい。と、開き直ってみたり。


そんな訳で、第一歩として問題提議(経済編)終了。そのうち政治編なんかも書けたらなぁ・・・

バランス感覚を身につける

仕事をする上で、いや、生きていく上においても、バランス感覚というのは非常に大事だと思います。昨今、「KY」なる空気読めない的な発言をよく目にしますが、これも言ってしまえばバランス感覚が欠けているのだと思われます。

例えば極右的な、もしくは、極左的な考え方が、人間社会を形成するにおいて衝突する原因となるのではないのかと。(ただ、こーゆー両極端的な考え方も全体を形成する上では必要であることは間違いないので、決して全否定している訳ではありません。悪しからず。)


では、どのようにしてバランス感覚を身に付けるのか。いくつかの方法を挙げてみました。


【バランス棒を持つ】
まず、極力、自分の考えとは反対側の意見を聞き、理解するよう心がけます。
自分の考えと同じような人の意見や主張ばかりを見ていると、自分がそちらに傾いていく傾向があり、そのうちその人の言っていることは全て正しいんだ、的な考えになります。これは結構危険だと思うんですよね。人間誰しも、全ての立場において正しい人なんていないので、やはり尊敬する師であろうがカリスマであろうが、話し半分強ぐらいに捉えている方が偏りにくくなるでしょう。
更に、自分の尊敬する人の意見に対して批判的に言っている人の意見をあえて聞き、その意見をできる限り汲み取ることによって右に傾いていたものが、左に戻されていくと思います。(勿論、誹謗・中傷的なものではなく、あくまで建設的な批判意見限定で。)
僕がよくする方法としては、アマゾンなんかのブックレビューで、自分の好きな本に対して評価の低いレビューをあえて読んだり、逆に面白くなかった本での評価の高いレビューを見たりして、自分とは違う意見を勉強したりしています。
この左右の意見を聞くことが、バランス棒を持つ感覚に似ているのではないでしょうか。これにより、左右へのブレを少なくでき、細いロープの上も渡って行けるようになると思います。



【バランスの板を広げる】
例えば狭い表面だけではどちらに傾いているかパッと見は分かりにくいですれど、その表面を大きく広げることによって、あ、実は傾いていたんだってのが見えてくるじゃないですか。
ってことで、自分の興味のなさそうな分野を取り入れたり、全然職種・年齢の違う人や異文化人との交流を通じ、表面を大きくします。
特に日本という国は隣接する国がなく、かつ日本語という一民族しか使ってない言語を使用しているため、比較的固執した考え方になりがちだと思うのです。多角的視野を手に入れるためには、一度、違う文化に触れてみるのも良い勉強になります。

僕の場合、基本的に体を動かすことが好きなのですが、あえてお茶に挑戦したり、バンドをしてみたりして、今まで見向きもしなかったり、諦めてた分野に入っていきました。本当に合わなければすぐにそこから出て行けばいいと思うのですが、これが意外と食わず嫌いだったりするものなので、やってみると新しい発見がいくつも出てくるもんですよ。




【自らバランスを崩してみる】
これが一番難しいんですが、でも結構大事だったりします。
常にバランスを保とうとしていると、何かの拍子に崩れてしまうかも知れなくて、それが外的要因だったりすると、なかなか立て直しにくいと思うんですね。でも、自らバランスを崩すと、自分で崩したので再び体勢を立て直しやすいんですよ。でもって、どこまで行くと崩れるのかって限界が分かるようにもなりますし。また、どこまで耐えられるかも判断できるようにもなります。
ものすごく抽象的で分かりにくいかも知れませんが、例えば僕の経験談で言うと、英語が全くできないにも関わらず、語学留学に挑戦し、そのとき持っていたバランスを一旦全て崩しました。別に当時の環境に不満があった訳ではなく、寧ろ楽しかったんですけどね。ただ、バランスを崩した当時は本当に不安でしたが、一度崩してみると、「あ、なんだ、こんなもんなんだ」って分かり、まだまだ限界地には達してないことに気づきました。



以前の日記にもちょっとだけ引用しましたが、僕の好きな言葉で、

「下にいったことがなければ 上にはいけない...
 右にいったことがなければ 左にはいけない...
 絶望したことがなければ 本当に大事なことはわからない」

という、ある漫画のセリフがあるのですが、まさしく僕の言いたいことをうまく短くまとめてくれています。



ってことで、国際的なバランス感覚を身に付けるよう心掛けてます。

僕のポータブルミュージック(携帯音楽)プレイヤーの変遷

【カセット時代(86年からの6年間)】
僕が小学校4年の頃(86年)、初めてアイワ(だったと思う。アイワって懐かしい!)のカセット型ウォークマン(はソニーの商品名称ですけど^^)でした。当時、嬉しくて、友達と外で遊んでいるときも身に付けて音楽を聴いていたなぁ。


その後、中学時代はウォークマンの記憶がないので、多分持ち歩いていなかったと思う。通学は徒歩10分圏内だったし、部活とか遊びばっかやってたし、塾も徒歩10分圏内だったので、多分、ウォークマンを必要と感じるところがなかったんだと思うなぁ。じゃー、小学校のときは何で買った(正確には買ってもらった)のかというと、単純に物珍しかったからですな。



【ワイヤレス時代(92年からの1年間)】
で、高校時代は電車で通学1時間弱だったので、これは是が非でも携帯音楽プレイヤーをゲットしなければ、ということで、色々探してたら、友達がソニーのワイヤレスリモコンのウォークマンを持っていたので、また物珍しいものに飛びつき、友達からそれを売ってもらった。その後すぐに新型ワイヤレスが発売されたので、古いのは誰かにあげて、即効それを買いましたね。



【MD時代(93年からの6年間)】
そしたら高校2年(93年)のとき、今度は別の友達が出たばかりのMDプレイヤーを持ってたんですよ。またまた物珍しいのが好きな僕は、それを友達から売ってもらいました。



【MP3時代(99年からの8年間)】
その後、大学時代までずーっとMDプレイヤーを三代は使い続けてましたが、社会人1年目(99年)のとき。会社の先輩が、MP3プレイヤーなるものを持ってたんですね。ほんと、こーゆー新しい機械に弱い僕は、またまたその先輩からそれを売ってもらい、そこからMP3に移行しました。(自分で新品買えよって話しですが、皆僕に、買うなら安くで売るよって言ってくれたのでそのまま中古で買いましたとさ。)当時のそれはまだ128MBしかなく、音質を落としても50曲ぐらいしか入らなかったなぁ。それでも最大80分×モノクロ2倍(4倍だったっけ?)のMDに比べたら一杯入った方か。まぁ、MDはディスクなので持ち運べば入れ替え可能ですけどね。


で、カナダ留学を機に、Rioの256MB内臓+SDカード挿入可のやつ(名前忘れた)に買い換えたのですが、それを3ヶ月で無くしちゃいました。。丁度そのとき友達が遊びに来る頃だったので、RioのNutro?(またまた名前が思い出せない。。)で、04年当時にしては内臓2GB搭載ってのはすんごい衝撃的だったんですよね。それをなんと母親と姉からプレゼントされて、感動したのを覚えてます。その3年後に、何かのクリスマス会でiPodの30GBのやつが当たって、結局そのRioを姉にあげることになったのですが、既にバッテリーが寿命だったようで使えなかったそうな。。。



【モバイル時代(07年から現在)】
そして07年のiPhoneの登場により、携帯電話と携帯音楽プレイヤーが統合され(というか、以前から統合機種は色々ありましたが、僕はこれからです)、携帯電話+音楽プレイヤーの時代へと移っていきました。当初はバッテリーの心配をしていましたが(音楽を聞いてるとバッテリーがすぐになくなりそうで、肝心の電話をかけたいときに電話ができないってパターンに陥るのが嫌だった)、でも意外とバッテリーが持つのと、家でも会社でも、毎日充電する癖がついたので、それはそれで良かったのかなぁ。それまでは携帯なんて3,4日に一回、充電すれば十分だったけど、逆にそれを忘れることがあったので。



ってことで、携帯に変わってから既に2年経ちましたが、こーやってみてみるとワイヤレスを除いて大体7,8年おきぐらいに技術進化みたいなのと同時に僕の携帯音楽プレイヤーのあり方も変わっていってるんですよねぇ。なので、あと5,6年すれば、また何か出てくるのかなぁって思ってます。


次は何が出てくるのか楽しみ!

日本人の熱い想いと僕が海外に出た理由

そうですか、最後のエントリーから2年ちょっと経ちましたか。その間、色々ありました。そりゃそーですよね。2年ですもんね。でもって住む場所も仕事も変わりました。ベトナムからシンガポールへと。


もともとブログを始めたのは、梅田望夫さんの「ウェブ進化論」を読んだのがきっかけだったのですが、半年ちょっと経ったところで現実世界の方で色々とあったもので、それからネットの世界から遠ざかってしまいました。(と言っても、傍観者としては常にいましたけど)。本当に何か書きたいと思うようになるまで、とりあえずブログのサバティカルみたいなのを取ってたわけですね。(そうなのか?)


ってことで、やっと復活です。というのもこのエントリーのお陰ですね。ありがとうございます。

これまでずっとなるべく言わないようにしていたのだが、もう平たく/明快に言うことにしました。
1)日本はもう立ち直れないと思う。
だから、
2)海外で勉強してそのまま海外で働く道を真剣に考えてみて欲しい。

はてさて、今更ながらこのエントリーに対して自分の意見をどうこう書こうって気はあまりないのですが、世間の反応を見て思ったことをつらづらと書こうかな、と。


えー、率直に言ってこの釣り、すごいですよね(笑)
初めて読んだとき、うわーすごい燃料投下だー、大丈夫かなー?とちょっと心配になりましたが、まさかここまで良い意味で派生していくとは思いもしなかったです。J-CASTで取り上げられ、YAHOOニュースにまで紹介されることになるとは。それだけ皆さん日本人としての熱い想いがあるのでしょう。それだけでも日本もまだまだ捨てたものじゃない、と楽観視してしまいそうです。ただ、色々なコメントを読んでましたけど、千賀さんが本当に言いたいことを理解してくれている人は正直少ないと感じました。そりゃそーか。普段から彼女のブログを読んでなくて、いきなりあのエントリーを見てしまったら、日本に居る人なら誰でもあーゆー反応になってしまうのかなぁ。ちょっと残念でしたけど。海外に行くことが逃げだと捉えられるのは正直悲しかったですね。海外で働いている人間としては。でも、前向きに捉えると、あれだけの人が意見して、自分の思いを素直にぶちまけて、議論して、あーだこーだ言って。本当に勉強になりました。特に、今まで見たこともなかった人々のブログまで目にする機会を与えてくれて、本当に感謝してます。(それでシンガポールのネットワークも若干広がったし)




で、僕がなぜ海外に出たのか。ちょっとだけ書いてみたいと思います。


僕の場合、日本での生活や仕事、友達、全てにおいて満足してたし、楽しかった。けど、だからこそ、楽しいだけではダメだと思って海外に出たんですよね。僕の好きな本で、「絶望したことがなければ、本当に大事なことはわからない」ってのを読んだときに衝撃的だったんですね。当時の僕には本当のどん底なんて全く持って味わったことがなかった。そりゃー小さいことでは一杯ありましたよ。例えば高校試験に落ちたとか、国体選考会で落ちたとか、インターハイ団体戦自分のせいで負けたとか、英語の授業で全出席してたのに単位落とされたとか、好きな人に振られたとかとか。そのときそのときではそれなりに落ち込んでたけど、絶望というには程遠い。なので「絶望ってどんな感じやろう?」って気分を味わうために、日本を飛び出しました。無謀にも。英語も全くできないのに。


6年弱経ち、それなりに苦しいこともありましたね。特にここ2年ぐらい。その苦しい中で見えてくるものがありました。ま、それでも世間一般からするとまだまだ甘ちゃんだとは思いますけど。


「本当に大切なものは目に見えない」


良い言葉ですね。その通りだと思います。日本を離れたからこそ、目に見えない日本が見えて、何が良くて、何がダメなのか。どうすればもっと良くなるのか。なーんてのを日々考えるようになって。


僕はいずれ日本に帰ります。それは日本という国が好きだから。なので将来的には日本のために何かしたいと思ってます。そのための海外武者修行なのだと。ってたいそうなことを言ってますが、悲しいかな、実力がまだまだ全然伴っていない。。。



ってことで、ブログ再開一発目として、僕なりの熱い気持ちを書いてみました。これからもちょくちょく自分なりの考えをのっけていこうと思います。多分、まだまだ甘っちょろい考えだなーって思うことが多々あると思いますが、それはそれで数年後、十数年後に振り返って笑い飛ばせられればいーのかなーっと。


おっしゃー!まつーらの人生、第十章のはじまりじゃー!

自分という人間が存在する証明方法(存在と認識と証明)

『人間は他人を通して自分を認識する』


昔どこかで聞いた言葉ですが、どこで聞いたかは忘れてしまいました。


つまり、人間は自分ひとりでは自分が誰だかわからないのだと。そして、他人が自分という1人の人間を認識することによって、初めて自分自身が存在していることを認識することができる、ということなのかと、私はそのとき判断したのですが。違いますかね?


例えば、誰も自分に話し掛けなくなったとしましょう。いや、誰も自分を認識しなくなったとしましょう。そうすると、自分は本当に生きているのか、この世に存在しているのか、分からなくなるんじゃないですかね。

では逆に、もし自分が死んでいてこの世から物理的にいなくなったとしても、他人が自分を認識できれば、それは自分が存在している、生きていると錯覚をおこすのかも。そう、ブルース・ウィリス演じる「シックスセンス」のように。子供がウィリスを認識できたことによって、彼は自分が存在しているという錯覚を起こします。(見てない人、ネタバレしてすみません。)



一方、『我思う、故に我あり(I think, therefore I am.)』なんて有名な命題もあります。


つまり、「自分は考えている、だから自分は存在しているのだ」ってなわけですね。ここでは、自分の存在は他人に左右されることがなく自分自身の問題だ、と説いています。多分。


さてこの2つの命題。矛盾しているようで、実はどっちも結構納得できます。

自分1人だけでも、自分自身が存在しているということは認識できるはず。ただ「自分」というパーソナリティは形成できないんじゃないかなぁ。個々人の性格やキャラクターを形成するものは、やはり他人の存在を通してでないと分かんないような気がしたんですね。


この話しはもうちょっと続きます。

仮想世界の行く末

スウェーデン政府、Second Lifeに大使館を開設へ』
http://japan.cnet.com/news/media/story/0,2000056023,20342079,00.htm
(更新するのを忘れてたので、ちょっと古い記事ですが…)


いやはや、時代はこんなとこまできましたか。


三次元仮想世界であるSecond Life内では、現実の大手企業も参入しビジネスショーや様々な催し物が開催されていますが、とうとうリアルの政府関係まで乗り込んできました。


僕が以前から妄想していたSNSの未来像が、こんなにも早く現実のものになるとは・・・。本当にITの世界はドッグイヤーと言われるだけあって、展開が速いです。まさしく僕が夢に描いてた世界が、もうすぐそこまで来ています。


今後、僕らは2つの世界を別々に生きていくのか。それともうまく融合していくのか。多分、後者だと思います。というか後者であって欲しい。



さて、3Dのあちらの世界がもたらす未来像、そして、今後のこちらの世界への影響やいかに。




ところで、Second Lifeにゲーム業界は参入しないのかな?既にゲーム業界はMMORPGによって3Dのバーチャルリアリティの世界では先駆者だった(と思う)ので、一番初めに食いついてくると思ってたんですけど。それとももう既に入ってる?知らないだけ?Second Life内にゲーム会場を作ったら盛り上がると思うんですけど、聞いたことないなぁ。



<2007.3.12更新>
ゲーム業界(ソニー)は、独自にその世界を作っていました。
http://www.gizmodo.jp/2007/03/post_1080.html

今こそ対ソニー派のゲーム会社は、Second Lifeに新たな風を吹き込むべきじゃないかなぁ。そして、Second Lifeをもっと活性化させて、早く次の時代を見てみたい。

『「みんなの意見」は案外正しい』は本当に正しいのか?

「みんなの意見」は案外正しい

「みんなの意見」は案外正しい



高校生の頃、僕はアーチェリー部に所属していました。その部活では3年が引退するときに、3年だけで集まって次の代の主将を決めるのです。

僕が3年のときも同じく、次期主将を決めるミーティングを行いました。ただ、次の世代、つまり2年生はそのとき3人しかおらず、主将はそのうちのほぼA君1人に絞られていました。


当時僕が主将を務めていたので、主将選定ミーティング開始後、誰が最も主将に適しているのかメンバー1人1人に意見を聞いてみました。案の定みんなが皆揃って、そのA君を指名しました。まあ、当然といっちゃ当然で、僕もA君を選ぶつもりだったのですが、このまま僕もA君と言ってしまって何の議論もされぬまますんなり終わるのが怖かったので、あえて天の邪鬼になってB君の名前を挙げました。すると勿論周りから「なんでや?」と非難轟々。まあ、本来ならすんなり決まるはずが、僕のせいで時間食うわけですからね。


ただ、人にはそれぞれ個性というものがあり、その中に得意・不得意、長所・短所があるじゃないですか。A君は確かに主将として一番近い器ではありましたが、勿論同時に不安要素もあります。またB君、そしてC君の場合も同様に主将という器とは違うかもしれませんが、A君にはない別の得意分野を持ってます。


で、あらゆる場面を想定して、こういうケースならB君の方がいい。また、こういうケースに陥るとC君も捨てがたい。と、色んな角度からの見解を提示したんですね。するとみんな「確かにそれも一理ある」ってなって、新たに一から考え直して、色々議論を重ねました。


まあ、最終的には僕も含めA君の満場一致で決まり、『「みんなの意見」は案外正しい』の言葉通りになったのですが、ただ、じゃあ少数派意見を無視してもいいのか、ってのはちょっと違うと思うんです。少数派意見の中には、「みんな」が思いもしない「何か」が隠れている可能性があるので、そういったモノも大切にした方がいいのかなぁと思った次第です。




今、僕が意識的にやっているのは、例えば本を買うときや読み終わったあと、その本に関するアマゾン等のレビューを一通り見てみます。その中で、自分の評価や見解と違う人や、一般的な評価と異なった意見を書いている人をできる限り読むようにしています。そうすることによって自分では気づかなかったモノの見方が発見でき、多角的視野の基盤になったりするのかなぁと思ったりしています。



ってことで、僕は「みんなの意見は案外正しいかも知れないけど、少数派意見にこそ大事な何かが隠されている可能性が高いので、それを見逃さないようにね」と、長ったらしくまとめて締めくくりたいと思います。



<2009.5.15追記>
改めて思ったことなのですが、要は「みんなの意見」に流されて思考停止状態に陥ることをなくしましょうってことです。「みんなの意見」が正しいかどうかは、あなた自身が決めることで、みんなが正しいと言っているから僕も正しいと思うってのはちょっと危険かなぁって思った次第です。はい。