実名・匿名論争を凌駕する圧倒的な何か

いやー、実に5年ぶり?のブログアップです。。

去年からNewsPicksというアプリを頻繁に利用しているのですが、今年に入ってからいくつかの仕様変更があり、そこで所謂「実名・匿名」論争があったので、僕なりの考えをまとめてみました。


まず、先に僕個人のスタンスを述べると、基本的には匿名の方からの意見も拝見したいと思っているので、匿名意見が排除されるのには反対です。それは、匿名の中にも自分にとって有益な情報はたくさん埋もれており、そういった情報にアクセス制限がかかることに不便を感じています。

ただ一方、実名主義も一定の理解はできます。
NPが匿名を排除することの方がメリットを見いだせるという方針を打ち立てたのであれば、一ユーザとしてはその判断に理解を示し、今後も利用し続けたいと思います。本当に嫌なら使わなければいいだけだと思いますので。

ま、でも、この実名・匿名問題って結局価値観の違いだけであって、どちらが正しい、間違ってるってことじゃないと思うんですよね。
例えばPRGゲームに置き換えると、全アイテムを取ってクリアするのか、ただひたすらクリアだけを目指すのか。どちらの楽しみ方もあって、それは人それぞれですが、僕個人としてはゲームをクリアすることよりも、全ての宝箱を見つけ出してアイテムを取りたい派です。そこに、ひょっとすると誰も見たことのないアイテムが隠れているんじゃないのか!?という好奇心があるので。そーゆー感覚に似ているのかなぁと。


ちょっと話は脱線しましたが、話しを元に戻して、最近色々とこの匿名・実名問題の本質について考えていました。そこで行き着いた答えが、「この論争を凌駕するような圧倒的な仕組みを我々はまだ構築できていないから」ではないのか、と考えるようになりました。


では、圧倒的な仕組みとはどういうものか。
実名・匿名関係なく、質の高いコメントを大勢の人が見れる環境、逆に実名であろうが著名であろうが、あまり有益とは思えない情報は比較的見えにくくする。

例えば、インターネットという大きな枠の中では有益な情報やあまり有益でない情報が溢れ返っており、その情報提供者というのは実名の人もいれば匿名の人もいます。で、その有益と思われる情報にアクセスしやすくしたのが皆さんもよくご存じのGoogleですよね。
このGoogle検索結果の上位に来るリンク先が実名か匿名かなんて、あまり誰も気にしてないと思います。気にするのは、その先の情報が自分にとって有益かどうか。

最終的には、Wikiニュース版みたいな感じができて、そこに知識が集まり、議論が発展する基盤ができたらいいかなぁと。

信用・信頼は時間を節約するということ

壮大なる「よかった確認」

そういう感覚が完全に壊れて、「公に頼らず自分の力で生き抜かなければ!」とか、「マスコミの言うことなんて全く信じられない。自分で情報を集めて自分で考えて判断しなければ!」と思う人が増えれば、日本の未来はまことに明るい。

そうなんですかねぇ。日本のマスコミや政府に対して皮肉を言っているのは分かりますよ。それでも僕はこういう傾向が「良い方向」だなんて思わないです。


僕は東南アジアで仕事をして早7年目、仕事のやり方がつくづく「自分の目でみないことには信用できない」ようになってきました。なので、ベンダーや取引先、お客さんからの情報だけでなく、自分のスタッフからの情報であっても「普通そこまで疑わないだろう」というレベルまで疑う癖が付きました。なもんで、自分のスタッフの言ってることに対して、嘘を付いているわけではないという意味では信用していますが、ただ、その情報の真偽に関してはそのまま真に受けないで、二重・三重に裏の確認を取ります。

でも、これって正直かなり時間の無駄だと思ってます。

信用できるスタッフがいれば、客先や取引先との信頼関係があれば、自分は詳細に関しては無視して要点だけチェックすれば、その今まで裏取りに使っていた時間を他の作業に使えるのです。


アイザック・ニュートン「もし私が他の人よりも遠くを見ているとしたら、それは巨人の肩の上に立っているからだ」と言ったのは有名ですが、その巨人が仮に虚人だったとしたら?でもってニュートンも巨人を信じなければ、また一から全ての研究をしないといけなかったはずです。
我々人類がここまで文明を発達することができた一番の要因は、"文字"の発明だと思っています。"文字"こそが、人類史上最大の発明ではないでしょうか。"文字"があったからこそ、人類は先代からの知識を引き継ぐことができ、知識を蓄えられ、そして、その知識に基づいて人類は進化することができたのです。


インターネットが現れ、"文字"、つまり"情報"はそこらじゅうに溢れ出しました。ただ、"情報"が膨大に増え溢れかえった分、悲しいことに偽の"情報"も増幅し、人々は混乱をきたし始めました。何を信じていいのか分からない。パブリックの情報さえ信じられるものか分からない。情報の真偽を確かめるためにソースを確認する、そのソースを確かめるためまた別のソースを・・・というようにキリがないのです。

こんな世の中で、本当に良い時代になったと言えるのでしょうか?
せめて一般公開された情報ぐらいは信頼できる世の中になって欲しいものです。。

日本の入試制度と人材育成について

最近、巷ではカンニングの件で盛り上がっているようですね。僕は2003年に日本を飛び出したあと、2004年頃から日本の教育環境について色々と考えるようになってきたのですが、この機会に僕の思うところをちょっとだけまとめて意見してみたいと思います。


まず、今回の事件は、その行動の良し悪しはおいとて、日本の大学入試制度を根本から考え直すという意味で、良いきっかけを作ってくれたと個人的には思っています。この事件を発端として有識者から続々と意見がアップされているようです。ざっと目を通した限りでも下記の通り。

日本の大学入試制度は本当に間違っているのか

携帯端末&ネットは史上最強のカンニングツールである事実が広く認知された

カンニングは良くないことだが・・・

受験問題のほうが、現代にそぐわない - 小林秀行

ソーシャル・カンニング? いいね!


そもそも大学という場所は専門的な学問を勉強するところだったはずです。ただ、いつの時代からか、良い会社に入るための登竜門として、良い大学に入ることが前提となっています。(※ここで言う「良い会社」とは、一般的に言われる「大企業」のことを指しています。個人的には必ずしも「良い会社=大企業」ではないと思っていますが。でもって「良い大学」とは、頭の良い大学、つまり偏差値の高い大学ですね。)

さて、こういう時代になってしまった以上(こういう時代というのは、ほとんどの学生が専門的な学問を学びたいためではなく、就職のために大学入学を目指すという時代のこと)、大学では学術的な知識を学ぶ場よりも、社会に通用する人材育成をした方が、日本のためなのではないでしょうか?本当の意味で専門知識を学びたい人は、それこそ大学院の修士課程や博士課程に進むべきだと思うんですね。

そして、今の日本の大学システムは、入学するのが難関で、卒業するのが比較的簡単であるという印象があります。で、入学試験は、暗記物の筆記テストが多く、如何にたくさんの情報を脳へ記憶し、それらの情報を瞬時に脳から引き出すのか、これにつきると思います。

では、現代の社会でそれほど暗記能力が求められているのでしょうか?今一度、現在求められている人材を洗い出してみることにします。


【今、企業で求められている人材】

  • 異文化コミュニケーション能力
  • いかなる環境下でもサバイバルできる生命力
  • 交渉力(特にWin-Winの関係が築ける交渉術)
  • (解が1つではない)問題解決能力
  • 発想力と実行力
  • 外国語能力
  • 情報収集力


とりあえず思いつくところを適当に挙げてみました。
このユビキタスの時代になった今、実は記憶力というのはそれほど重要ではなくなってきたと思います。確かに外国語を話すためには最低限単語を覚えるという記憶力や、簡単な計算をするための九九であったり、ある程度の史実を覚えておくような記憶力は大事ですが、それこそ「歩く百科事典」と呼ばれるほど、昔ほど脳みそに何でもかんでも記憶させる必要はなくなったように思います。それよりは、もう少し自分で考える能力を身につけ、それを発信する力が今の時代には合っているのではないでしょうか。

ということで、それを元に教育システムを抜本から改革していくと、現代の大学入試制度は、もう時代にマッチしていないと思うんですよね。

あと、カンニングをできなくするガチガチに固められた環境を作り出すよりは、カンニングをしても意味がないテストを作るとかどうでしょうか?本は勿論持ち込み可として、インターネット使用すら可能にしてしまえば、ある意味カンニングなんてものは意味がなくなってしまいます。ただ、本やネットでの検索と、自分の脳だけで解くので圧倒的に違うのはスピードですよね。英文問題なんてものは、翻訳の問題とかではなく、ある状況だけ説明して、その状況下において、あなたならどう答えるか英文で答えるとか。それをネットで聞いてもいいけど、結局その分時間がロスするだけなので、問題量を格段に増やすとか。極論を言うと、隣の人に回答を聞いてもいいんではないですかね。ただ、隣はライバルであり赤の他人であるので、普通に考えると教えないですよね。その赤の他人のライバルですら教えてもらえる交渉術があるのも1つの芸だと思います。

最終的には小論文や面接が一番有効な手段になるのかと思いますが、ただ、それをやると学校側の労力が半端なくなるんですよね。そのための足きり手段として、暗記物の試験が手っ取り早いのは分かるのですが、そこはやはりもう少し労力をかけて一工夫してもらいたいところです。


そんな訳で、日本の教育システムを時代にマッチしたものにするには、大学の入試制度を変えるのが一番効果的かと思った次第です。グロービス経営大学院大学大前研一さんのビジネス・ブレイクスルー大学なんかは今の時代にあった大学で、他の大学もこういう風になれば日本ももっと良くなるんじゃないのかなぁと思ったりしています。

裕福な国と幸福な国は必ずしも同一とは限らない。

さて、前回GDPというモノサシについて若干言及しました。その続きとして、ではGDP以外の指標をどうすればいいのか、色々な記事から方向性を探って行きたいと思います。
その前に、実は我が国を含む先進諸国でも色々と模索し始めているようですね。

「仏大統領、新経済尺度「幸福度」を提唱 市場・GDP崇拝脱却促す」

−−−<(2009/9/19)記事引用>−−−

フランスのサルコジ大統領は14日、同国政府は社会・経済発展を測定する指標として、従来の国内総生産(GDP)に加えて、医療福祉の充実度、不平等がないか、雇用条件、家族関係などを含めた「幸福度」を用いるつもりだと述べた。

−−−<以上、引用終了>−−−


「GDPよりも「幸福度」…新指標、政府が検討(リンク切れ)」

−−−<時事通信(2010/2/28-14:03)全記事引用>−−−

  鳩山由紀夫首相は28日、首相公邸で菅直人副総理兼財務相仙谷由人国家戦略担当相らと会い、新成長戦略の具体策取りまとめに向け、国民の「幸福度」を調べる方針で一致した。具体的な調査項目を詰めた上で、3月初めにも着手する。
 会談後、仙谷氏は公邸前で「単なる数字のGDP国内総生産)だけじゃない成長をわれわれがどうつくっていくのかと(いうことだ)」と記者団に述べ、新たな指標として検討していることを明らかにした。
 「幸福度」については、昨年12月にまとめた新成長戦略の基本方針でも「国民の『幸福度』を表す新たな指標を開発し、その向上に向けた取り組みを行う」と盛り込まれた。

−−−<以上、時事通信(2010/2/28-14:03)からの引用終了>−−−


「「幸福度」を測ろう=首相肝いり、新指標導入へ−英」

−−−<時事通信(2010/11/16-14:13)全記事引用>−−−

 【ロンドン時事】本当の豊かさを数値化できないはずはない−。
国民が実感している幸福度を示す新指標を導入しようとの動きが英国で出ている。キャメロン首相の肝いりで検討されており、調査を定期的に実施することで政策づくりにも役立てる方針という。
 「豊かさ」を測る代表的指標としては国内総生産(GDP)が知られているが、英紙ガーディアンによると、キャメロン首相は以前、「人生にお金以上に大切なことがあるのは誰もが認めている」と話し、「GDPだけでなく『国民の幸福度』にも関心を払う時代だ」と強調した。
 まだ流動的な要素は多いものの、幸福度を測るため、(1)生活の満足度は10段階で何番目か(2)きのうはどれくらい幸せだったか(3)職場や家庭で男性と女性は平等に扱われているか−などの質問が想定されている。調査の結果は、四半期ごとに発表される方向だ。
 英国以外でも、フランスのサルコジ大統領が昨年、ノーベル経済学賞受賞の米経済学者らの提言に基づき、経済発展を目指す際に幸福度も加味すべきだとの報告書を公表した。ブータンでは既にGDPでなく国民総幸福(GNH)を指標として重視。幸福感を増加させる政策が取られている。

−−−<以上、時事通信(2010/2/28-14:03)からの引用終了>−−−


国の豊かさを計るモノサシを、今まではGDPや経済成長率等のお金を中心とする数値に頼ってきた結果、お金中心の社会が築きあがってしまい、心のゆとりのようなものが失われつつあるように感じ始めたのでしょう。お金だけでは人間本来の意味での「豊かさ」の指標にはならないということで、国をあげて真剣に人間の「幸福度」に取り組もうとしています。20世紀、社会主義を駆逐した資本主義ですが、そろそろこの市場原理主義も限界なんじゃないかなぁと思います。

ということで僕個人的にはこの流れには賛同なんですが、GDP等の経済指標と違い、個人の幸福なんてかなり主観的ですので、判断基準をどうするのかがポイントとなってくるかと思います。有名な例では、ブータン王国が昔から「国民総幸福量」というのを取り入れています。

「ブータン王国に学ぶリーダーシップの形」

国民の幸せを考える時に必要なものは、最低限の物の豊かさは必要であるけれども、それプラス、国民個人の精神的な和が大切である。民を取り巻く家族の和、地域社会の和、それから、人間と大自然との和、そして、国民1人1人が自覚して、アイデンティティとして共有できる歴史、文明、文化が大事である
(中略)
経済成長は目的ならず、経済成長は国民が幸せを追求するための手段のひとつである。手段と目的を取り違えてはいけない。大きな間違いの元になる。成長の速度ではなくて、いろいろな形の人の和を大切にする経済成長の質を、いつも考えなくてはいけない。

「国民総幸福量(Gross National Happiness):経済的に、精神的に豊かであるということ」

ブータンの政策の中では、国民総幸福量には4つの主要な柱があるとされています。それらは、持続可能で公平な社会経済開発、自然環境の保護、有形、無形文化財の保護、そして良い統治です。


日本でも過去、都道府県別に幸福度のランキングを付けようとしていたようですが、廃止されたようですね。

「世界最貧国のブータンもトップクラス 政府導入検討で注目される「幸福度」指標とは」

この指標は、持ち家比率、公園面積、大学進学率などを基準に、経済的な豊かさにとどまらない生活の豊かさを指標として算出するものだったが、ランキングで下位に入った都道府県からの抗議が続出。そのためランキングは廃止されたという経緯がある。

これは、基準が持ち家比率や大学進学率といった、実際、人々の幸福とは直接関係ないから却下されたんではないですかね。中卒であろうが、やりたいことをやっている人は幸せでしょうし、大卒でも特に何も考えずに職に職にあぶれちゃった人は幸せと感じてないでしょうし。持ち家じゃなく借家だって幸せに暮らしている人はたくさんいるでしょう。ある意味経済的な豊かさにとどまっているような気がします。


では、どういったものが指標になるんですかね。ちきりんさんはこのようなアイデアを挙げています。

「人間のための指標」

1.年間自殺者数を現在の3万人から1万人未満に下げる。
2.全年代の失業率を6%未満に下げる。
3.ジェンダーギャップ指数ランキングを世界50位以内に上げる。
4.片親家庭の子供の貧困率を現行の半分にする。

自殺率や犯罪率、特に殺人・傷害件数なんかは幸せな国を計る指標としては分かりやすいと思います。ただ、これは幸せを計るというよりは不幸を計る指標でしょうか。つまり、幸せと感じる瞬間は個々人でかなりバラつきがありますが、不幸と感じるのは結構似通っています。であれば不幸を基準にして、それを減らす努力をすれば、相対的に幸福度が上がったということではないか、という手法なんですかね。


我々にとって幸せとは何か。絶対的な幸せなんてものはないでしょうが、大多数の人が求める幸福を、もっと真剣に考えてみたいと思います。

官僚とGDPという名のモノサシについて

「【続編】シンガポールのすごい官僚制度について(2) Q&A」

僕もシンガポールに数年住んで、このブログ主の主張と全く同じ考えを持つようになりました。特に官僚の報酬を高額にするのには賛成です。その一番の理由として汚職が減るキッカケになると思ったからです。

で、このブログ主の主張にはほぼ同意なのですが、1点だけ僕なりの意見を言わせて頂きたいと思います。

Q:シンガポールの官僚の給料はGDP成長率に比例しているとのことだが、日本にも人事院勧告で官僚の給料は民間にあわせ上下させている。それゆえ、シンガポールだけ評価するのは中立でないのではないか。

A:人事院勧告は公務員のインセンティブとして機能していない。これは、あくまで人事院勧告は民間の賃金との適切な均衡を確保するという観点が強く、公務員に対するインセンティブ付与という観点から作られた制度ではないので、当然といえば当然ではある。このブログは公務員の読者も多いのだが、人事院勧告がインセンティブになっていると考えている公務員はいないはずだ。


なお、GDP成長率に給料を連動させるやり方だが、もし仮に日本に導入するとしたらシンガポールと全く同じやり方ではまずい。シンガポールは小国の新興都市国家GDP成長率の振れ幅が非常に大きいのに対し、日本は老大国でGDP成長率の振れ幅が小さいからである。シンガポールのやり方をそのままやってもうまく機能しないだろう。

個人的には、GDP成長率にレバレッジをかけるのはどうかと考えている。たとえば、レバレッジを10倍くらいにして、GDPが3%増えたら給料を30%増やす、逆にGDPが3%減ったら給料を30%減らすなんてどうだろうか。(まあ、今後GDPが上がる可能性と下がる可能性のどちらが高いか考えたら、みんな反対するのかな。「GDPが上がる」じゃなくて「GDPを上げる」ためにこのシステムがあるのだが・・・。)

あと、GDP成長率を給料に連動させるというシステムは、東京都や横浜市みたいな大都市の職員向けにも導入できるだろう。例えば「東京都のGDPが20%増えたら都庁職員の給料20%アップ」ってシステムがあったら都庁職員は東京都のGDPを上げようと必死でがんばるはずだ。景気も良くなって税収も増える可能性が高い。


公務員の給与の指標がGDPのみだと、行政側としては経済が活性化されることだけに注力しやすくなります。しかし、それでは本来民間が行わない行政の仕事を疎かにしがちになるのではないでしょうか。例えば都心で公園や緑を増やす活動というのは人々の生活においては結構大事なことだったりしますが、GDPの成長に直結するとは考えにくいです。そうなると、こういう仕事は後回しにされるようになり、それこそお金目的の活動ばかりになるでしょう。


GDPは国家の指標として判断しやすく一つの計りであることは間違いないですが、それのみが判断基準になると非常に危険な方向に進んでいくような気がします。それが今の経済至上主義・拝金主義に繋がっているのだと思います。


それではどうすればいいのか、日々無い脳みそを搾り出して考えてはいるものの、まだ全然妙案が思い浮かびません。
そこは今後の課題としたいと思います。

コピー市場拡大の恐ろしい罠


僕がよく読むブログで、おちゃらけ社会派のちきりんさんのブログがあります。
基本的には彼女の思想は概ね賛同できるのですが、たまに「え?」と思う意見もあります。
今回ご紹介するエントリーでも自分なりに納得のいかなかった内容だったので意見を言いたかったんですが、いつもはてブやコメント欄にコメントを残したりもするのですが、コメント欄が廃止になったのとはてブには書ききれなかったので、自分のブログに書いてトラックバックでもしてみようかというテストです。


『グローバリゼーション ステージ2』
(だいぶ前のエントリで恐縮ですが・・・)

次に裁定取引市場の特徴です。こういう市場では、裁定機会が縮小して最終的に消滅するまで次々に新たな裁定者がでてきます。中国で一個1000円で作ったものを、発注元の欧米・日韓企業が先進国で3000円で売っているとすれば、「じゃあ、オレ達はこれを2000円で直接売ろう」と思う人がでてくるのはごく自然な話です。

ここでもしも欧米・日韓側が最初から2000円を大きく下回る価格で売っていたら、中国側はニセモノを作るインセンティブが得られません。摘発の可能性、没収の可能性、ニセモノ工場だっていろんなリスクを織り込んで商売をしているので、1000円で作ったものを1200円でニセモノとして売る、では商売が成り立たないからです。

いや、1000円で作ったものを1200円で売る、でも商売は成り立つはずです。中国企業というのは、日本側がなんぼで売ろうがそんなのは気にしてないと思うんです。あくまで1000円で作ったものが、それ以上で数多く売れるのであれば、本物がなんぼで売っていようが知ったこっちゃない。リスクを織り込んで商売をしていると言っていますが、そもそもそんなリスクすらも考えてないのが中国企業です。そのとき利益がでればいいんです。摘発されれば、また新たに違うニセモノを作ったらいいんです。少なくとも、僕の知っている中国人はそんな考え方の持ち主でした。

つまり、ニセモノ市場が発生する理由のひとつは、“欧米・日韓の発注企業の鞘抜き額が大きすぎるから”だと言えます。あまりに大きな額を抜こうとするから“一定のリスクをとってその中間価格でニセモノを売る”という商売に経済合理性が発生してしまうのです。

メーカー側は「“あまりに大きな額”なんて抜いてない。正当な開発費分だ!開発の苦労分を価格に上乗せするするのは当然だ!」と言うかもしれませんが、日本における開発者や本社の人件費&諸費用のレベルを前提としての“正当性”なんて、それこそグローバル市場において正当化できません。

いや、「鞘抜き額が大きすぎるから」ではないと思います。簡単にコピーできて、それがある程度の利益を乗っけても売れるからです。

でもって、これは一般メーカー企業をあまりにも軽視しすぎではないでしょうか。開発費とは製造費だけではありません。研究費から設計費、広告費に至る全てがそこにのっかっているのです。ニセモノ、つまりコピー商品とは、それら全てを鞘抜きしてしまうことです。僕は少なからず今は製造業に関わるビジネスをしているため、1つの商品を作り出すコストが製造費以外に膨大にかかっていることはある程度理解しています。

また、メーカー側は毎回売れる商品を作っている訳ではありません。時には失敗作も世に出しています。というか大成功する方が稀ではないでしょうか。そういったリスクも背負っているのです。コピーメーカー側は、失敗作ではなく市場に出回っている実績ある商品をコピーするので、その辺のリスクはないです。


で、本当に恐ろしいのは、コピーでホンモノが売れなくなり、メーカー側がホンモノの商品を作ることを止めてしまうことです。つまりはイノベーションすら起こらなくなり、商品の進化はストップしてしまうのです。オリジナルの商品が高いのはそこで産まれた利益を次の商品開発等に投資する目的もあるのですが、それができなくなるのですね。

ま、ひょっとするとちきりんさんはモノ自体がいらないと言っているので、商品の進化すらももういーんじゃね?って思ってるのかも知れませんが。僕的には進化が止まるのは残念で仕方がないです。今後、ニセモノ大国で、オリジナルのイノベーション商品が頻繁に出てくるようになれば、それはそれで良いことだとは思いますが、まだそのレベルに達するには時間がかかると思います。


ということで、コピー商品の容認には断固として反対なのですが、かといってその流れをいかに阻止するのかは結構難しかったりすると思います。あとは人間か国のモラルに任せるということになるのでしょうか・・・

才能か運か

日本に生まれたのは、単なる偶然だよね。

この時代の日本で生まれたというのは、本人の才能や努力とは関係なく、単なる運なんですが、幸運であることに気づかない人も最近は、多いみたいですね。

うーん、どうなんですかね?ま、人それぞれだとは思いますが、僕は単なる運じゃないと思っています。

もし生まれ育った場所を運というのであれば、母親や父親だって運ですよね。その子供として生まれて、たまたま勉強ができたとか、足が速かったとか、絶対音感があったとか、絵が上手かったとか、これも全て才能ではなく運とも言えるのではないでしょうか?だって、母親や父親だって僕達は選べない訳で、幸か不幸か僕達はその両親から生まれてきたんですよね。であれば一般的に才能といわれているものですら、両親から引き継いだ遺伝子に基づいている訳で、偶然の産物として定義できると思います。


ですので、僕は、お金持ちの家で生まれた人であれば、それも一種の才能だと思っています。それを有効に使うのか、全く使わないのかは個人の自由ですし、どちらが良い悪いというのはないと思いますが。例え親の財産であったとしても、子供はその恩恵を受けられますし、引き継ぐ権利があるのですから、遺伝子の引継ぎによる個人的な能力だけを才能というのではなく、マクロな意味においては、親の財産であっても才能として定義できるのではないでしょうか。そうであれば、日本で生まれたということですら、単なる運ではなく、才能の一つとして認められてもいいと思います。


でもって、日本で生まれたという幸運にもその才能を授かったのに気付かない人が多いのは当然だと思います。少なくとも、日本国内のみで生活しているだけでは、周りがほぼ全員同じ条件であるため、日本人であるという属性が消されてしまうからです。逆に海外に出ると、特に移民が多い国に行けば、どの国が対外的に力を持っているのかというのは結構顕著に表れたりします。例えば国外へ行くとき、ビザがいるのかいらないのか。ビザすら取らせてくれない国だって中にはあります。


僕は幸運にも日本人という、属性であり一種の才能を持っていたお陰で、海外への渡航はどの国へ行くにしても困らないです。そして、この才能を活かさない手はないと思っています。