自分という人間が存在する証明方法(存在と認識と証明)

『人間は他人を通して自分を認識する』


昔どこかで聞いた言葉ですが、どこで聞いたかは忘れてしまいました。


つまり、人間は自分ひとりでは自分が誰だかわからないのだと。そして、他人が自分という1人の人間を認識することによって、初めて自分自身が存在していることを認識することができる、ということなのかと、私はそのとき判断したのですが。違いますかね?


例えば、誰も自分に話し掛けなくなったとしましょう。いや、誰も自分を認識しなくなったとしましょう。そうすると、自分は本当に生きているのか、この世に存在しているのか、分からなくなるんじゃないですかね。

では逆に、もし自分が死んでいてこの世から物理的にいなくなったとしても、他人が自分を認識できれば、それは自分が存在している、生きていると錯覚をおこすのかも。そう、ブルース・ウィリス演じる「シックスセンス」のように。子供がウィリスを認識できたことによって、彼は自分が存在しているという錯覚を起こします。(見てない人、ネタバレしてすみません。)



一方、『我思う、故に我あり(I think, therefore I am.)』なんて有名な命題もあります。


つまり、「自分は考えている、だから自分は存在しているのだ」ってなわけですね。ここでは、自分の存在は他人に左右されることがなく自分自身の問題だ、と説いています。多分。


さてこの2つの命題。矛盾しているようで、実はどっちも結構納得できます。

自分1人だけでも、自分自身が存在しているということは認識できるはず。ただ「自分」というパーソナリティは形成できないんじゃないかなぁ。個々人の性格やキャラクターを形成するものは、やはり他人の存在を通してでないと分かんないような気がしたんですね。


この話しはもうちょっと続きます。