ギリシャの破綻と日本の借金と円高に関する僕なりの見解

ギリシャという一つの国が、事実上ほぼ破綻したのは記憶に新しいです。

そもそも、国が破綻するというのはどういうことでしょうか?

公務員の給与や年金、公共投資等の支出が、収入である税金を上回ると、国は国債を発行します。それがその国の借金になる訳ですが、その借金がこのままでは返済できないレベルにまで達してしまったということです。


では、我が日本はどうなんでしょう?

皆さんもよくご存知の通り、日本は世界で最も借金の多い国で、現在負債総額が800兆円あります。赤ちゃんも含めて国民一人当たりの借金に換算すると650万円になります。生まれながらにして、僕達は650万円もの負債を抱えてしまっているのです。しかも、その借金は毎年増加しているという。


この国債を減らすには、費用を削減して、税金を多く徴収するのが一般的な方法です。(他の方法として国債のデフォルトや極端な円安、ハイパーインフレ、デノミ等々ありますが、ここでは割愛。)ですので、事業仕分けやらで支出を必死で減らそうとしたり、消費税や所得税、贅沢税などの増税を検討してみたりしているんですね。


ではなぜこんな借金大国であるのにも関わらず、今、円高の一人勝ち状態なのでしょう?日本とギリシャの違いはなんなんでしょうか?


それはギリシャと日本の借金の質の違いにあります。

ギリシャの借金は他国が肩代わりしているのに対して、日本の借金、つまり日本国債はほとんどが日本国内で消化しているからだと言われています。ギリシャの場合、借金が膨れ上がっているにも関わらず、一向に財政を立て直すどころか、公務員の給与や待遇は良いままなので、とうとう他国から見放されてしまい、財政破綻に追いやられてしまいました。しかし日本の場合、その借金は国民自らが肩代わりしているので、他国から見れば、日本円はそれほど危険ではない、という判断のもと、円高傾向になっているのだと思います。


さて、ここでポイントなのが「日本の借金は日本国内で消化している」というところですが、これはどういうことかというと、日本の銀行や郵便局に貯蓄されてある資産を使って国債が買われているんですね。でもってこの貯蓄されているお金は誰のものかというと、我々日本人のものです。つまり結局のところ、日本人はみな、日本の借金を肩代わりしているってことなのです。

ただ、一つ問題なのが現在、日本人の銀行や郵貯に預けているお金等の個人金融資産は1400兆円あると言われおり、そのうち、個人の負債を差し引くと、1000兆円残ります。つまり1000兆円が日本国の資産として計算できるお金であり、借金の限度額ということになります。そして、今の借金が800兆円あり、年間平均50兆円ずつ国債が膨れ上がっている状態なので、あと4年でデッドラインを超える言われています。


さて、デッドラインを超えると言われている4年後も、まだ日本円が強いのかどうか、カネの切れ目が縁(円)の切れ目となるのかどうか、乞うご期待です。

犬と食肉と人間のエゴ


一番好きな動物は何かと問われれば、僕は文句なしに犬を挙げます。ま、理由は至って単純で、僕が物心付いた三歳のときから17年間、”コロ”という(至極オーソドックスな名前・・)柴犬を飼っていたからです。

一方インドネシアでは、というかムスリムでは、犬は下等動物として扱われているらしく、街中で野良猫はよく見かけますが、野良犬はほとんどいませんし、飼い犬も外国人(特に日本人)以外が飼っているところは、ここジャカルタでは見ません。

僕の知人で、ジャカルタの家で犬を飼っている人がいるのですが、家政婦を探すのに苦労し、やっと犬がいても大丈夫な家政婦が見つかったと思って来てもらったのですが、4日目から何も言わずに突然来なくなったとのこと。犬の存在に耐え切れなくなったらしいです。それほど犬という動物がダメなようで、触ることは勿論、見るのも嫌なのでしょうね。日本人的感覚で言うと、ゴキブリとかムカデとかですかね。大量のゴキブリをペットとして家で飼っていたら、確かにその家の家政婦にはなりたくないですよね。


イスラム教では犬と同様に、豚も不浄な動物として扱われているため、ムスリムの人はご存知の通り豚肉を食べません。もし豚を飼っている人がいれば、多分同等の理由で家政婦さんはなかなか見つからないと思います。


ちなみに、こちらもご存知の通り、インドなどのヒンドゥー教では、牛を神聖な生き物として扱っているため牛肉を食べません。イスラム教徒の豚とは真逆の考え方ですが、食べないという意味においては全く同じです。あと、インドネシアでありながらバリ島では、ムスリムよりもヒンドゥー教徒の方が多いため、豚肉は売っていますが、牛肉はほとんど売っていないらしいです。ジャカルタとは逆ですね。



さて、日本人にとって、ヒンドゥー教徒の牛にあたるのが、犬だと思います。僕はベトナムで犬を食べたことがありますが、それを日本人の友達に話すと、皆さん(特に女性)に「えー、信じられない」とか「かわいそう。。」とか言われます。理由を聞くと「犬はペットだから」とか「かわいいから」とかいう答えが返ってきます。

日本人が動物の中で犬を特別扱いする感覚は、多分、徳川綱吉によって「生類憐れみの令」のお触れが出たとき、特にお犬様が崇められたために、それが現世にまで残っているのかなぁと思った次第です。


余談ですが、兎を数えるとき1羽、2羽と鳥と同様の「羽(わ)」の助数詞を使いますが、この由来について...
 ・獣肉食が禁止されていた時代、大きく長い耳の形状が鳥の羽を連想させることから「兎は獣ではなく鳥だ」と見なして食肉としていたとする説
 ・同じく獣肉食が禁止されていた時代、「兎はウ(鵜)とサギ(鷺)に分けられるから鳥だ」とこじつけて食肉としていたとする説
 ・獲物は耳を束ねて持ち歩き、一掴みにすることを一把(いちわ)、二把(にわ)と数えたことから後の羽(わ)につながったとする説
といったいくつかの諸説があるようです。


色々な動物の肉を食べる、食べない理由はお国柄、宗教柄色々とありますが、それを他人にまで強要するのがシーシェパードです。彼らの持論は「鯨は頭がいいから、食べるな」として、それを捕獲している日本の捕鯨船武力行使で阻止しています。

頭がいいから食べない、頭が悪けりゃ食べる、かわいいから食べない、不細工なら食べる、ペットだから食べない、家畜であれば食べる・・・


結局、人間という生き物は、自分達の都合の良いようにしか解釈せず、私達は常にエゴの中で生きています。そのエゴを自分の中だけで貫き通すのは問題ないですが、他人にまで押し付けるのは如何なものなのかと思った次第です。

自動車業界の行く末 〜次世代自動車とは?〜


僕は数年前から若干ながらも自動車業界に絡んだお仕事をしている関係上、この業界の行く末が気になるところではあります。

20世紀は、自動車産業のためにあった100年と言っても過言ではないぐらい、車が我々の実生活環境を大きく変え、また世界経済をも牽引してき、現在のライフスタイルを確立させました。その中で、大手自動車メーカーの生命線であり、大手がなぜ大手として長年君臨しているのか、この構造が崩れないのかの最重要部分となっているのが『エンジン』です。ただ、今世紀の前半で、この構造が大きく変わる可能性が出てきました。


「今一番やっていけないのは、我々自動車メーカーのマネです」

「クルマ」がそのまま「EV」になっては、新興国にかなわない

F:私も素人ながら、あのクルマに乗ってこれは来るな、電気自動車の時代は間違いなくすぐそこまで来ているな、と強く思いました。ただ電気自動車は構成部品も少なくなりモジュール化も益々進んでくる。異業種からの参入も増えると思うのですが、いかがでしょう?ソニー自動車とかパナオートとか、楽天車両なんて会社が突然出来るかも知れません。

吉:あるでしょうね。あると思います。
 しかしその流れの中で、決して彼らがやってはいけないことは、我々自動車会社のマネをするということです。今、我々はガソリン車を電気自動車化しようとしています。例えば電機メーカーが、ああ、これなら俺たちにも出来そうだと思って飛び込むと、出来た頃には我々は既に別の世界に居ますよ、ということです。我々は先に言った、100年目の自動車革命を起こそうとしているのですから。

(中略)

F:2、3年で見よう見まねでガソリン車の代替品のようなものを造ったところで、その頃には自動車メーカーは誰もそんなことをやっていないかもしれない、と。

吉:その可能性は大ですね。そうしたやり方をしていると、新興国メーカーとの価格競争に巻き込まれる事になる。中国やインドの自動車と価格競争が出来ますか? 例えば中国にはBYDさんがありますけど、そこはもう一生懸命、電気自動車をやられている。
(中略)
元々はバッテリーの会社なのですが、今はすごい量のバッテリーをドカっと積んで、一充電で航続距離300km のクルマを造ってしまった。ガソリン車も既に他社を買収して製造ノウハウを積み上げている。こんな会社が電気自動車に打って出るんですよ。余り知られていないけれど、彼らと同じような自動車メーカーは中国の中にいくつもある。
今のクルマのエンジンとガソリンを、ただモーターとバッテリーに入れ替えればいいと思うメーカーは、そこと価格競争するんです。そこに巻き込まれるんです。こんなことは新興国の新進メーカーでもできる事なんです。そんなところと価格競争するんですか、ということなんですね。


今後の自動車メーカーを占う上で容易に想像できるのが、上記で懸念されている通り、ガソリン自動車から電気自動車(EV)に移り変われば『エンジン』から『モーター』に変わるということで、電機メーカーや中小企業の自動車サプライヤー、下手すれば個人レベルですらも作れてしまう時代が来たということです。ただ、日本の電機メーカーは、自ら自動車を作るような馬鹿なマネはせず、オイシイ所だけを取ろうとするはずですので、日系電機メーカーが自動車を販売することは恐らく考えられないでしょう。そのオイシイ所というのが『エンジン+ガソリン』に変わる『モーター+電池』です。もし今後EVが主流となれば、『エンジン』ではなく『電池』を制するものが自動車業界を制すると考えられます。また同時に、一般人からの視点で言うと「EVが市場を奪っていく」ことは「電池が発展する」ことに繋がり、「エンジンの進化」よりは「電池の進化」の方が人間の生活にはメリットがありそうです。

(ちなみに、このインタビューでは、自動車メーカーをマネることが何故だめなのかという理由として、「出来た頃には我々は既に別の世界に居ますよ」と答えていますが、これでは回答になっているとは思えませんね。)



それでは自動車メーカーの立場としてはどうなのでしょうか?

各社の『エンジン』は20世紀、常に進化し続けてきました。F1というスポーツもその一役を買っています。その凝縮された技術の結晶を、大手自動車メーカーは捨て去ることができるのでしょうか?
勿論、簡単には捨てきれないため、延命措置として各社は『エンジン』も搭載しているエコカーハイブリッド車(HV)を市場に投入しています。ただ、これはあくまで延命措置であり、根本的な解決にはなっていません。また燃料である石油もあと数十年で枯渇すると言われています。大手自動車メーカーが今後も主導権を握るためには、僕としてはやはり『エンジン』は捨てきれないと思います。そのためには第二、第三の燃料を探しに行く必要があるのだろうと思います。例えば水素燃料やバイオ燃料天然ガスが挙げられます。実際、開発しているメーカーもいるようですが、EVよりはまだ全然注目されてません。ただ、EVに舵を取るよりは、まだこちらの方が大手の座に残る可能性があるかと思うのですが。あと、大型旅客機は流石に電気では飛べないと思うので、次世代燃料は必ず必要だと思ってます。

一方、『エンジン』に拘ることが、ひょっとするとイノベーションのジレンマに陥っているという危険性もなくはないです。過去の産物に固執するあまり、時代の流れを読み間違え、取り残されていった大企業は少なくありません。1つだけ言えることは、今が自動車業界の転換期であるということです。

ベトナム(サイゴン)vsインドネシア(ジャカルタ)〜あくまで主観的な比較〜


月日が流れるのは早いものです。最低月4回の更新を宣言しておきながら、全く持って公約が守られていません。。どこかの政治家じゃあるまいし(苦笑)、気を取り直して今日からまた心機一転、頑張って更新していきます。ついでにブログのデザインも変えてみました。前よりも見易くなったと個人的には思うのですが・・・



さて、前回の更新から約5ヶ月経った訳ですが、僕もチャラチャラ遊んでいたわけではなく?実は昨年11月に生活拠点がシンガポールからインドネシアへと移り、色々とバタバタしてました。でもって担当業務もシンガポールでのヘルプデスクのお守りから、インドネシアでの新規事業立ち上げということで、それなりに忙しくなったんですね。という言い訳だけちょっとさせて頂きます、と。


ということで、折角インドネシアに来て数ヶ月の時間が経ったのだから、今日はというか今後はインドネシアネタを中心に語っていきたいと思います。その第一弾が、これ『ベトナムサイゴン)vsインドネシアジャカルタ)』。


サイゴン生活は2年、ジャカルタ生活は始まってまだ数ヶ月なので、それほど平等に比較はできないとは思いますが、所詮このような比較なんてものは個人の主観が往々にして入るものなので、期間的なものは大した弊害にはならないのかなぁと思います。しかもWiki等のデータにはあまりない、なるべく生の声を反映させたいと思いますので、思いっきり主観が入ってしまう可能性も大です。その辺はご了承下さい。

ちなみに、今回比較対象を行うに辺りシンガポールを入れていませんが、それはシンガポールは先進国で、生活水準は日本と同等か、特定の分野ではそれ以上(例えば公共交通システムや安全面、政府機関システム等々)なので、比較するなら日本やカナダのバンクーバー(←以前住んだことがある)かなぁと。

ということで早速いきたいと思います。


■お国柄
どちらも金・権力がもの言う世界で、更に中途半端に上に立っている人は基本的にダメなパターンが多い。何をやるにしても袖の下通す系が多いですね。ま、どこの国も多かれ少なかれそういうのはあるかも知れませんが、それが顕著に出ています。更にベトナムでは日本の893が入りこめなかったとかなんとか。なんでかっていうとそれ以上に政府がおいしいとこ全部を牛耳っているから、893でも手に負えないとかなんとか。ま、大体想像通りの世界ですね。


■お人柄
一般市民においては、どちらも陽気で優しい人が多い感じです。若干インドネシアの方が陽気度が上かなぁ?あとお店の対応はインドネシアの方がサービスが良い感じです。ベトナム人は勤勉な人が多い。インドネシア人と比べると、そこは大きく差があります。インドネシア人は基本的にグータラな性格が多い感じですかね。あ、ちなみに中華系は除きますね。あと、ベトナム人はプライドが高い人が多くて、やたら人の目を気にしがちです。持っている携帯とか、乗っているバイクとかにやたらこだわります。僕は日本ではある程度こだわっていましたが、海外に出てからは(歳をとったせいもありますが)なんでもよくなったため、携帯とかバイクとか現地人にバカにされてましたね。


■言語
言語はお互いアルファベットなのですが、断然ベトナム語の方が難しいです。何が難しいって発音。中国語でも4声調しかないのに、ベトナム語は6声調ありますからね。しかも違いがほとんど分からないんです。その点、インドネシア語はローマ字読みが多いため、日本人にとっては発音しやすいです。文法に関しては、ほとんど勉強してないので分かりません。ただ、どちらも単語さえ覚えられれば、日常会話ぐらいは比較的簡単にできるのではないでしょうか?英語の方が文法が難しい気がします。現地にいる日本人でいうと、圧倒的にインドネシア語の方がしゃべれています。ベトナム語をビジネスレベルで話せる日本人なんて数えるほどしかいませんでしたが、インドネシアで驚いたのが、こちらにいる日本人のほとんどがインドネシア語を話せること。それも仕事としてそれを使用していること。英語力でいうとベトナム人より断然インドネシア人の方が上なのですが、それ以上に日本人のインドネシア語力は凄いです。それほど言語が習得しやすい、ということに直結しているのだと思います。


■物価
物価はベトナムの方が若干安いですね。例えば最低賃金や食費、交通費等が若干ベトナムの方が安いでしょう。ただ、住宅と車に関してだけは、ベトナムの方が高いですね。通貨の単位はほとんど一緒です(1万ルピア=100円、1万ドン=70円)。あと面白いのが、100ドンや100ルピア以下の単位(1円以下)は切り捨てられ、お釣りでたまに数円ぐらい足りないときがあるのですが、そのときはガムとかあめちゃんとかでお釣りの代わりとして補うところですね。


■ビジネス
仕事のしやすさは、、、どっちもどっちですかねぇ?個人的にはインドネシアの方が断然しやすいのですが、それはやっている仕事や会社の環境が違うからであって、単純には比較できませんねぇ。でも、インドネシア人の方があきらめみたいな、なんというかガッツリさというのはないですね。仕事取れたらいいけど、なくてもまぁしゃーないよねー、ぐらいの感じ。一方ベトナムでは、是が非でも仕事(お金)を取ってやるぞっていう意気込みが感じられました。なので、そこは勤勉という人柄も出ているんですかね。そういう意味で、インドネシアの方が仕事のストレスは感じずにできるのかなぁ、といった印象です。


■交通手段
道路インフラはもう桁違いにジャカルタの勝ち(ここはインドネシアと言わず、ジャカルタ限定にします)。ベトナムはほんとヒドイです。今はまだバイクが主流だからいいですが、もっと車が多くなってくると、本当に偉いことになると思います。でもってソレを体現しているのがジャカルタ市内の交通渋滞ですね。道路インフラはまだ全然いいのですが、如何せん車が飽和状態です。モノレールとかできると、もっと渋滞が緩和すると思うのですが。一応昔途中まで作ってたのですがアジア通貨危機で頓挫して、最近また計画が復活しているみたいですけどね。


■治安
やはり断然ベトナムの方がいいですね。そりゃー中には悪いところもありますが、街中では夜でも一人で歩けますし、盗難・窃盗だけ気をつけていれば全然大丈夫です。一方インドネシアではやはり周りからやたらと危ない危ないと聞きますね。でも、まだ実際に危険な目にあった人には出会ったことはありませんが。あくまで「知り合いの知り合いが〜」ぐらいのレベルです。気をつけていればそれほど危険ではないです。ただ、やはり外を一人で歩くのはほとんどできないですけどね。あと、一応爆破テロがたまに起こります。これは非常に怖いですね。基本的に白人(特にアメリカ人)が狙われるので、白人の多い場所にはあまりいかない方がいいと聞きました。


■宗教
これはもう何と言ってもインドネシアイスラム教が、、、大声では言えませんが、僕は好きではありません。特に朝のコーラン。。これだけは本当に勘弁して欲しいです。ベトナムは日本と同じ仏教と言いつつほぼ無宗教です。


■歌
なぜこれを挙げたのかというと、こちらに来て思ったのはインドネシアではやたらと今時のポップやロックが多いのですが、ベトナムでは演歌系みたいな古臭い音楽が多かったんですね。ですので、現地にいる日本人はベトナムの音楽を聞こうとする人は少なかったですが、インドネシアの音楽は結構みんな聞いていますね。まぁ、あとはインドネシア語の方が歌いやすい、覚えやすいというのもあるかも知れませんが。ただ、それを差し引いてもベトナムの音楽はあまり好きにはなれなかったですね。


■現地日本人
でもって決定的に違うのが、現地に住んでいる日本人です。これが一番面白いですね。カナダ、シンガポールベトナムインドネシアと4カ国定住しましたが、それぞれの国でそれぞれの日本人の特徴があります。なぜこんな人ばっかりが集まるんだろう?というぐらいに、国によって本当に日本人の色があります。多分、僕が歳を取ったり趣味が変わって付き合う層が変わったとかも関係しているかも知れませんが、基本的に色んなところへ顔を出す方なので、それなりに様々な日本人と出会っています。そんな訳で、まずベトナムにいた日本人ですが、ほとんどの人がベトナムの国や人の文句を言っていた(笑)相当ストレスたまっているんだなぁと思いました。逆にベトナムが好きだって言う人は1,2割ぐらいじゃないですかねぇ。勿論旅行客ではなく、現地に住んでいる人ですよ。あくまで個人的な感覚ですけどね。ただ、そんな中でもみんななんやかんや言いながら楽しそうに生活していたのも印象的でしたね。一方インドネシアでは文句を言っている人は1,2割ぐらいじゃないですかね。多くの日本人がここの国での生活を気に入っている感じがします。僕もその中の一人です。ただ僕は、ベトナムを先に経験したから、ある程度の東南アジアのダメさには慣れたってのもありますけどね。順番が逆だったら、個人的にはもうちょっと違った印象を持ったかも知れません。で、かなり不思議だったのが、ベトナムの方が物凄く変で個性的な日本人が多かったです。良い意味でね(笑)いや、笑い事ではなく、僕はほんと個性的な変人が好きなので、あそこは僕にとって最高の日本人コミュニティの楽園でした。でもってインドネシアも勿論個性的な人が多いのですが、なんていうのか、問題意識をしっかりと持った人が多いような気がしますね。時代がそうさせているのか、僕の付き合う人がそういう傾向になりつつあるのかは分かりませんが、そういう風に感じました。
ちなみにシンガポールにいる日本人ですが、都会の日本人コミュニティって感じです。つまり関係が希薄になりがちで、小さいコミュニティはいっぱいあるんですが、一致団結って感じではないですね。インドネシアベトナムでは生活が不便なことが多いので、日本人の仲間意識が強くて、お互い助け合って生きていこうって感じです。



こんな感じですが、他に何か違いを知りたかったら何でも聞いてください。お答えできる範囲で回答いたします。


■おまけ
女の子はインドネシアの方がかわいいですw(←かなり主観的)

ネットでの実名主義と匿名主義 〜「王様の耳はロバの耳」と叫べる空間の重要性〜

どうも、松浦孝紀(実名)です。


ネットの世界での実名主義・匿名主義という主張は昔から定期的に議論が交わされており、僕はどちらの意見も理解できますが、個人的には両立した空間を求めているので、どちらかというと匿名派ですね。(実名派の人は実名の世界しか頭にないけど、匿名派の人は匿名・実名両方あっていいと考えているため。参考:ひろゆき氏の日記


「ネット上でも実名で表現を」
http://mainichi.jp/select/biz/katsuma/crosstalk/2009/10/post-27.html

 健全な助け合いが本来、ネットメディアの望ましい姿であるにもかかわらず、一部には、過激な中傷があとを絶ちません。「炎上」という形で多数の人から非難された結果、閉鎖するブログもあります。

健全な助け合いは、本来「ネットメディアの望ましい姿」だけではなく、人々の生活全般においての望ましい姿ですよね。ネットメディアはあくまで生活の一部なだけです。でもって過激な中傷は匿名の世界だけに起こっているとも思えないです。実名である現実世界だって、虐めは存在していますし、マスコミも著名人だけでなく、たまに一般人を吊るし上げることだってあります。リアルでも「炎上」に似たことはあるので、ネットの世界も実名のみにしたからといって「炎上」がなくなるとは思えないです。

 しかし、ネットがメディアとしての信頼性を高め、既存のメディアと肩を並べる存在になるには、表現者が自分の名前を開示し、責任の所在を明らかにすることが不可欠だと私は考えています。匿名コミュニケーションのままでは、いつまでもネットは周辺メディアの位置にとどまるでしょう。

ネットの一部分をマスコミと対等するようなメディアに置き換えるのであればいいんですが、ネット全体をメディアとして捉えることがそもそも無理だと思うのですね。一部分だけであれば、アゴラのように実名者のみの空間を作って、それに賛同する人のみ集えばいいのではないでしょうか。

 ネット上で実名主義をとるにあたって、プライバシーをどう守っていくかは、今後の課題です。しかし、自分の名前を開示して、発言に責任を持つことは、相手とのかかわりを深め、理解を求めるための必要条件と考えます。

前提条件がそもそも違うと思うんですね。世の中には、相手との関わりを深めることを必要としていない人もいるわけで。

 ネットを過激な陰口の場にしないためにも、思い切って、実名主義を進めてみませんか。それによって、コミュニケーションが円滑になるほか、ビジネス面での利用の際の信頼性も高まると確信しています。

『匿名=陰口』という図式が、いかにも偏った考え方(ステレオタイプ)に思えて仕方がありません。


授業中、手をあげて発表する人ばかりが意見を持っている人とは限らないです。何か自分なりの意見があっても人前で発表するのが億劫な人だって結構いるはずです。では、その人達の意見にはあまり価値がないのでしょうか?

そういう人前ではちょっと物怖じして発言したくない人にとって、匿名でも意見が言えるネット空間は、それこそ水を得た魚のように日ごろの想いを発信できる場ではないでしょうか。そんな貴重な意見を吸い上げるためにも、匿名の場は必要だと思っています。



また他方で、ダークな空間も人間には必要だと思っています。

多くの人々はストレスを抱えて生きています。それを発散する場は、人それぞれもっていますが、その一つとして匿名であるネット空間は有効だと感じています。人々の現状の不満が可視的にリアルタイムで見れる場というのは他にないですよね。その時代時代の不満を分析・研究することには、それなりに意味があると思うのですが。


そんなわけで、「王様の耳はロバの耳ー!」と大声で言える空間があった方が、それによってストレスを発散できる人のためにもなり、その声を分析できる学者や研究者のためにもなり、今後の人間の生き方を模索する足しになると思ってます。

著作権法違反とスピード違反 〜今後の著作権のあり方〜

Winny開発者、逆転無罪 二審・大阪高裁」
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0910/08/news031.html

P2Pファイル共有ソフトWinny」を開発・公開して著作権法違反の幇助(ほうじょ)罪に問われた元東京大学助手、金子勇被告の控訴審判決公判が10月8日あり、大阪高裁(小倉正三裁判長)は、罰金刑とした一審判決を破棄、無罪を言い渡した。


Winny裁判の記事でよくみかけるコメントとして「このWinny開発が有罪ならナイフや包丁を作った人も殺人幇助で有罪だ」という意見が多数見受けられますが、それはちょっと違うと思うんですね。今回の裁判のポイント、なぜ警察側が逮捕に踏み切ったのか、検察側が有罪を主張しているかというと、金子被告の思想が危険だと判断したからです。
それは被告から発せられた、こんな言葉から来ています。

著作権を侵害する行為を蔓延させて、著作権を変えるのが目的だった」


Winny作者逮捕から日本のプログラマについて考える」より抜粋
http://itpro.nikkeibp.co.jp/free/ITPro/OPINION/20040517/144242/



ナイフや包丁を作っている人が、人殺しとしての目的のためだけにその道具を作っていれば同様のケースが当てはめられるかも知れませんが、実際はそんなことはないでしょう。


ただ、自動車の最高時速は同等のケースとして扱われてもおかしくないと個人的には思っています。と言うのも、日本国内の高速道路を含めた一般道では、速度制限は100km/hで、それ以上出せないにも関わらず、ほとんどの車がそれを大幅に超えるスピードを出せる性能を持っています。開発者側からすると、時速100km/hを超える性能を搭載させることはスピード違反だと分かっているにも関わらず、それを大幅に超えるスピードが可能だということは、スピード違反の幇助で罪に問われても仕方がないように思います。


「<トヨタ>最高速325キロ! レクサスのスーパースポーツ「LFA」世界初公開」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091021-00000010-maiall-bus_all

カーボン素材を採用して軽量化を図り、最高速度は325キロに達する。時速100キロまで3.7秒の加速を誇り、同社は「感動と官能を極限まで追求した」と意気込んでいる。


この325km/hという速度を日本国内のどの道で出せと言っているのか、不思議でなりません。


ということで、金子被告が本当に著作権法違反の幇助罪に問われるのであれば、自動車の開発者や販売会社側もスピード違反の幇助罪に問われてもおかしくないのではないでしょうか?



ちなみに僕の著作権に関する考え方なのですが、金子被告の思想に激しく賛同致します。(ということは、もし金子被告が有罪になれば、僕も有罪?思想が危険という理由で?)


Winny裁判の控訴審が判決へ」
http://gensizin2.seesaa.net/article/129261013.html

実際、金子氏は2ちゃんねる上で次のように書き込みしている。
「個人的な意見ですけど、P2P技術が出てきたことで著作権などの従来の概念が既に崩れはじめている時代に突入しているのだと思います。
お上の圧力で規制するというのも一つの手ですが、技術的に可能であれば、誰かがこの壁に穴あけてしまって後ろに戻れなくなるはず。最終的には崩れるだけで、将来的には今とは別の著作権の概念が必要になると思います。どうせ戻れないのなら押してしまってもいいかっなって所もありますね」


今の著作権法では、著作権保有者の権益を不用意に守りすぎるあまり、ビジネスの発展を著しく止めてしまっている節が否めないように感じます。また、それと同時に違法コピーはもう簡単には止められないところまできています。インターネットがここまで普及した時代において、今までインターネットがなかった時代の著作権法ではカバーしきれません。それであれば一層のこと丸ごとゴソッと変えてしまうべきです。遅かれ早かれ、そうなるのですから。ただ、ではどのようにすべきか、コピーをされてもオリジナルを作った方に利益が落ちる仕組みを真剣に考えるべきですよね。


だいぶ前のエントリーですが渡辺千賀さんのブログより、Princeは既に音楽ソフトを売るよりはライブで稼いでいるとのこと。


著作権保護よりライブで稼ぐ、というビジネスモデル」
http://www.chikawatanabe.com/blog/2007/08/post-3.html

「Princeはライブの稼ぎがメイン。印税収入はたいして重要ではない。CDは、ライブをプロモートするための広告ツールであり、別に違法コピーがどれほど出回ってもOK。むしろ、沢山出回って知名度が上がり、ライブに人が沢山来てもらったほうがよい。しかも、CDに頼らなければレコードレーベルに利益を搾り取られることもない」


ということで、今後まだまだWinny裁判、及び、著作権問題から目が離せなさそうです。

マザーハウス山口さんの哲学(追記あり)

前回マイクロファイナンスについてエントリーしたあとに、たまたまYouTubeで見つけたマザーハウス山口さんの情熱大陸


マザーハウスという会社は今まで何度か耳にしたことはあったのですが、恥ずかしながらほんと最近まで実態をほとんど知りませんでした。。。


情熱大陸 山口絵理子 1/3」
http://www.youtube.com/watch?v=9n0qNVWscio

情熱大陸 山口絵理子 2/3」
http://www.youtube.com/watch?v=7dqfxhuGmDs

情熱大陸 山口絵理子 3/3」
http://www.youtube.com/watch?v=WlVWvlekTYs


その中でも、特に印象に残ったのが、4:45ぐらいからのマネージャーの方のインタビューシーン。


『これまで大勢の人々が開発の名の下にやってきてお金や食料を援助してくれました。でも私が思うにそれには持続的な効果はありません。なぜなら人々に無償で何かを与えるのは彼らを「物乞い」にするのと同じだからです。

エリコさんは全く違う哲学の持ち主です。

彼女は「ビジネス」を通じてこの国を力づけようとしています。それこそが人々を救う唯一の持続的な道と私も信じています。もし仕事があれば彼らは誇りを持って生きていけます。それが私が彼女と共に働く最大の理由です。』


どれも大切なことだったので、彼の言葉を全て抜粋してみました。この言葉は本当に真理を突いていると思います。

これが、僕が前回のエントリーで言いたかったことなのですが、如何せん、実際肌で体験されている方と傍観者では言葉は重みが違いますね。はい。



いやしかし、なんなんだろう、胸の奥にあるこのモヤモヤ感は・・・
自分は何か、もっと大切な何かを見逃しているんじゃないのか、そういう思いが沸々とわいてきました。


一度きりの人生、「これだ!」というものを見つけて、それに向かって邁進したいものです。


【2009/09/28追記】
『危ういマイクロファイナンス・バブル』
http://newsweekjapan.jp/stories/business/2009/07/post-270.php

世界中でもてはやされるマイクロファイナンスだが、貧困改善を裏付けるデータは存在しなかった

ふむふむ、なるほど。